和み農

 

大家族が実践している農法は「和み農」と言う。

「和み農」とは

  1. 全ての生き物と共生し、
  2. 環境と調和して、
  3. 排出ガスを最小限に抑え、
  4. 作物と心を通わせ、
  5. 資材を循環させて、
  6. 技能を磨き、
  7. “本当に安全な作物”を作る

農法のことだ。そして、

8.神への祈りから始める

ということを付け加えたい。以下に各構成要素について、説明したい。

1.全ての生き物との共生

それは微生物との共生に始まり、田畑に生息する虫や草や小動物、そしてそこへ飛来する鳥たちと共生するということだ。したがって、農薬と化学肥料は一切使わない。これが大前提となる。             さらには、田畑を荒らす野生動物と上手に棲み分けて折り合いをつけることも含めたい。

2.環境との調和

「環境と調和して」は、その言葉の通りで、もはや多くの説明を労する必要はないだろうが、実は日本語の環境とはかなり広い概念だ。本来農業は人と自然の間にある営みだから、環境と言った時には、自然環境と人的環境の二つを含むと理解すべきだ。だから、人と調和し、自然とも調和する。そのように理解してほしい。特に人間関係においては、「非対立」がとても大切だ。そして、共生も調和も大和言葉では「和む」に通じる概念だ。だから、人と和み、自然とも和む。それが「和み農」だ。

餅つき、料理

(晩秋の収穫祭。みんなで餅を搗き、あんころ餅などにして共に食すのは身も心も和むひと時だ)

3.排出ガスを最小限に抑える

「排出ガスを最小限に抑え」というのは、つまり、機械は使っていいけれど、無駄な使用は極力避けるという意味だ。

不耕起栽培を提唱した福岡正信さんも川口由一さんも基本的に機械の使用を想定していない。自給自足なら、それは決して不可能ではない。自分の家族だけならそれで十分養える。私も多くの人が自給自足できるようになるのが一番望ましいと考えている。しかし、一般市民が一切機械に頼らずにすべて人力で自給自足生活を実現するのは、現代においては決して簡単ではない。しかし、ある程度機械の助けを借りれば、土と触れ、作物と触れ合い、自然と触れ合って、食卓をにぎやかにする「農のある生活」を実現することはそんなに難しい話ではない。

一方、広い面積を耕作する農家は何でもかんでも機械に頼り、より大きく、より強く、より早く、より効率的な機械を求めてやまない傾向が強い。それでは、排出ガスは増える一方だ。また、ハウス栽培は特に冬場に大量のガソリンを燃やすボイラーに依存する栽培だ。異常気象でその負担にあえぐ農家が増えている。そういう外的要因も含めて、機械を使いこなしているようで、実は逆に機械に使われている農家も少なくない。

私は市民であれ、農家であれ、まずは機械とも和みましょうと言いたい。機械は使い方次第だ。機械に「ありがとう」「今日も頼むね。」「世話になったね。」こう声をかけて、機械とも和む。

専業農家やha単位を耕作する規模の大きい農家で大事なことは、大型機械を使って、自分の心を見失わないことだ。いわゆる機械化農業、大規模農業には農薬と化学肥料は不可避であって、自然との調和も生き物との共生も絶対にありえない。大規模農業は力によって自然をねじ伏せる農業だから、必ず自然破壊を伴う。そのような農業がアメリカやブラジルでは遺伝子組み換え作物が席巻する“反自然農業”を現出させている。そうなる前にどこかでかけるべきブレーキがあったはずだ。

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(機械も千差万別だ。例えば、歩行式耕運機は鍬の10倍から20倍の能力を持つ。鍬と比べると、確かに騒音を伴い、土の破壊力は大きい。しかし、大地の上を歩いているので、まだ思いを土に寄せて、土と和むことはできる。)

私はそのブレーキを心に置きたい。どこまでの機械化、どこまでの広さなら人は機械と土地と作物とその環境とも和む事が出来るのか。その範囲内にとどまることができる限り、人は微生物と共生し、その田んぼ環境や畑環境と調和した農業を展開することができる。そのように感じる。やはり生き物を殺す農業では大地と和むことは不可能なことだと思う。

だから、人によっては、それはベランダのプランター栽培であろうし、庭の片隅にあるたった1坪の家庭菜園であってかまわない。週末を畑で過ごすことができるなら、それは50坪かもしれないし、100坪かもしれない。専業農家なら、1ha,2haぐらいあってもなんとか大地と和むことができるように思う。

それから、専業農家であれば、これからは労働生産性を上げることだけでなく、エネルギー生産性(一定のエネルギー使用量に対して生産される価値)や炭素生産性(一定のCO2排出に対して生産される価値)も追及すべきだ。例えば、たいていの農家は耕す必要がなくても習慣で頻繁に耕している。和み農では、収穫が終わったらすぐトラクタ-で耕すのではなく、次の作付との関係で、本当に耕す必要があるのかどうか、耕すとしてもいつまでなら耕さないでおいて大丈夫かを考える。そうして、1回でも耕す回数を減らす。それは同時に小動物の生息環境への配慮にもなる。

4.作物と心を通わせる

「作物と心を通わせ」は、「作物と和んで」とそのまま言い換えてもいいだろう。栽培者が作物に優しい声をかけて、我が子を見るように温かいまなざしで作物を見れば、作物はその足音を聞き分けて来訪を喜ぶだろうし、その声は葉に心地よく響くだろう。そして、栽培者は自ずから心が和むだろう。土を這う虫や土の中から姿を現すミミズにも共感できる心を育むのが「和み農」だ。

5.資材を循環させる

「資材を循環させて」とは、まず第一に農作物をゴミ、すなわち、産業廃棄物にしないで循環させることだ。よく知られているのは、農家が生産した作物を消費者に届け、その使い残しの生ごみを農家が引き取って堆肥化し、それを畑に戻すような地域ぐるみの取り組みだ。とてもよいことだ。

あまり意識されないが、その反対のケースで、循環しない化学合成物資はできるだけ使用しないことも大切だ。ビニールマルチ、トンネルマルチ、寒冷紗、育苗箱など、化学合成物質なしには現代農業は成り立たない。そういう化学合成資材を使わずに済むなら、それはそれで実に素晴らしいことだが、そうするといろんな点で不便であることも確かだ。「和み農」では、そういう物資も感謝して使う。大切に長く使う。捨てるときは環境に配慮して処分する。

そして、もちろん可能な限り自然素材を生かして、工夫して使うように心がけることが大切だ。例えば、大家族でビニールマルチは原則として使わず、代わりに藁を最大限活用し、刈った草も様々な形でマルチとして、たい肥として生かしている。雑草のマルチも堆肥も作物を健康にするとても良い効果がある。それがわかると、憎らしく思えた雑草にも感謝の気持ちが芽生え、雑草との共生を考えられるようになる。

だから、この項は「資材を生かして、循環させる」といった方がよいかもしれない。

6.技能を磨く

南北に3000kmもある日本列島。国土の7割は山岳地帯で、地域ごとに四季折々に微妙に異なる気候風土を持つ無数の小さな地域の集合体である日本列島。そこには単一的にマニュアル化した大規模・機械化農業は馴染まない。移りゆく自然の微妙な変化に心を済ませ、それを敏感に感じ取り、その時々に必要な手当てを施し、作物の健全な成長を支える。そうして、高品質の、その地域ならではの作物を作る。    そのような自然に対する感性と自然を見る目を養い、それを日進月歩の科学的な知識と結びつけて、その畑に、その土地に最も相応しい栽培技術を造り出す。そのような知識と経験の照らし合い、理論と実践のぶつけ合いで培うのが技能だ。技能は「技農」に通じる。ベランダでも、10㎡の市民農園でも、1ヘクタールの畑でも、日本列島で農を営むのに一番相応しい技術的対応策は技能を養い、技能を磨くことだ。また、技能こそが日本列島が培った大和の民の最も得意とする能力だ。

7.”本当に安全な作物”を作る

「本当に安全な作物を作る」とは、いわゆる世間で言う「安全・安心な作物」とは一線を画している。なぜなら、例えば、農薬や化学肥料が半分に減った作物はどう考えても安全ではないからだ。世間ではたいていはその程度の物を「安全で安心な作物」と言っている。今日本全国どこへ行っても「安全・安心な作物」であふれかえっている。しかし、本当はそうではなくて、「危険度半減作物」というべきだろう。農薬がたった一回大地にふりまかれただけで、微生物に始まる田畑の生き物たちが一体どれだけ死滅してしまうことだろうか。それだけの毒が薄まったとしても継続的に人体に入って体内に蓄積されていったら、いつまでも安全だなどとどうして言えようか。また、有機JAS認定の作物だって、本当に安全だと言う保証がない。なぜなら、その大半は畜産糞尿をそのまま田畑に鋤きこんだり、堆肥化して投入したりしているが、そういった原料には様々な薬品や抗生物質やホルモン剤などが含まれていて、作物はそういった危険物質を吸収してしまうからだ。これは実に皮肉なことだが、事実だからなんとも悲しい。だから、有機JAS認定作物であっても、「本当に安全な作物」を作るにはかなりの工夫が必要だ。全ての生き物にとって安全な栽培をすることが「本当に安全な作物を作る」ということだ。

8.神への祈りから始める

今世界を席巻している農業、つまり、農薬と化学肥料と大型機械で行う化学農業はいったいどこで道を誤ってしまったのだろうか。それは自然の豊かな恵みを与えてくださる神を捨てたところから始まったのではないだろうか。それ以前は、世界中どこへ行っても、人々は神に祈り、神に感謝する農業を営んでいた。かの有名はミレーの『晩鐘』はそれを伝えている。          Jean-François_Millet_(II)_001[1]

目を日本に戻すと、日本で最も格式の高い伊勢神宮では、年に千五百回もの神事が営まれているが、その中心をなすのが米作りに関する行事=儀式だそうだ。その基本は、「春に祈り、秋に感謝する」ことだそうだ。私はその精神を復活させなくてはいけないと思う。それが「神への祈りから始まる」農業だ。

一文でまとめると、神に祈り、土と和み、作物と和み、自然と和み、人と和み、機械とも和んで、技能を磨く。それが「和み農」である。

私は「和み農」で一人でも多くの方が自然環境に優しい『農』のある生活を送ってほしいと願う。そして、「和み農」で心豊かな自給自足生活を確立してほしいと思う。また、専業農家でも、「和み農」なら、農家の知恵を働かせ、技能を磨くことで、ヘクタール単位の規模であっても、生き物豊かな自然環境を創造しながら、栽培管理ができて、高付加価値の作物を生産することができるので、きっとしっかりと生計が立てられるようになると思う。

合資会社 大家族

代表 小川 誠

「和み農」への1件のフィードバック

  1. 数日前に
    令和6年度「和み農」野菜栽培研修会に参加申し込みをしましたが、何も返信が無いので心配しています。
    もう定員に達しているということでしょうか。
    よろしくお願い致します。

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