津久井在来大豆の種まきで私が一番困っているのは、種を播くときです。というのも、大家族では大豆を自家採取して、それを播いているのですが、その種を鳩が食べてしまうからです。
これがまたふるっていて、播かれた種はよせばいいのに、わざわざ丸ごと地上に顔を出して、「鳩さん、どうぞお食べください」とやるのです。なんでそんなことをやるのかというと、その種が真っ二つに割れて、最初の葉(子葉)になるのです。
(右に顔を出した大豆。左は種が二つに割れ始めたところ。)
だから、たまったものではありません。鳩君たちはここぞとばかり仲間を連れてきて、片っ端から食べまくります。また、種が土の中にあっても、鳩君たちは上手に見つけ出して食べてしまいます。そうして一昨年は何枚もの畑で物の見事に種を食べ尽くされてしまいました。
そう書くと、では、他の農家もみな同じ被害に遭うのではないかと思われるでしょう。ところが、そうはなりません。というのも、普通の大豆は表面に忌避剤と呼ばれる化学物質が塗られているので、鳩君たちはまずくて食べる気にならないからです。しかし、私のところではそれも農薬には違いないので、とても買って使う気にはなれないのです。でも、そうすると、鳩君たちの猛攻撃に遭ってしまう。これは実に深刻な問題です。種が成長できなければ、その年の大豆の生産は全滅するわけですから、まさに死活問題です。
それで、その年はどうしたかというと、「叶わぬ時の神頼み」とよく言いますが、他にできることが何もないので、本気で神様に祈りを捧げて、種を播き直しました。すると、どうでしょう。どの畑でも種は食べられずに葉を広げて、その畑で生きていくことが許されたのです。
無事に子葉(下側)と初生葉(上側)を広げ始めたところ。初生葉は小鳥のくちばしのように見える。「ピーチクーパーチク、よかったよう、よかった、よかった、よかったよう」とさえずっているかのようだ。
ただ、一枚の畑だけは、ほとんどが食べられてしまいました。そこは、スタッフに播いてもらい、終わるころ私が行って、祈りを捧げたところでした。何が違ったのでしょうか。それは、祈りの深さだと思います。自分で播いたところの方が種に愛着を感じますし、その分真剣みが強かったのでしょう。
このような体験から、真摯で真剣な祈りは天に通じることがあるということを実感しました。その時私が感じたことをもう少し正確に言いましょう。 生き物との共生を目指して、農薬や化学肥料を使わない農業を神様は喜んでいらっしゃる。だから、農薬のかかっていない自然状態の大豆の種を播いて、必死で神様に祈ると、神様はその祈りを聞き入れてくださって、鳩君たちが食べないように諭してくださる。すると、鳩君たちは素直に神様の言いつけに従う。そういうことが本当にあるのです。
見事に生い茂った大豆
神様に祈ってから大豆の種を播くということは、去年も実践しました。お陰様で、大豆は無事生長することができました。「和み農」では、「神への祈りから始める」ことを基本の一つに挙げていますが、実はそのような実体験からそれが有効であることがわかって加えたものです。
小川