稗に心を寄せて(10)

稲と稗の関係を論じている間にずいぶん話が広がってしまったが、読者は稗と稲の昔の姿や、これからの姿に少しは思いを馳せることができたのではないだろうか。

動物の家畜化は比較的わかりやすい。犬でもネコでもラクダでもどこかの時点で人に飼いならされて、人に寄り添う生活をするようになった生き物だ。その過程で動物なりに性格や習性を変化させてきたのだろう。胡坐をかいているとすぐそこに寄って来てぽこっと収まってしまうネコの愛らしい習性は野生時代にはなかったものだろう。前足を揃えてまっすぐに伸ばして座る「基本姿勢」は完璧だ。猫の美学を表現している。これも一人の技ではないだろう。私はタイで野生のトラが僧院で僧侶に飼いならされて、かなりネコ化しているのを見てきた。また、トラに触ることのできる動物園にも行って、恐る恐る実際にこの手で触ってきたこともある。トラはまだまだネコほど好かれ方が巧みではない。(笑い)          151

(腰のあたりをそっと撫でたら、まさか、こっちをむいてしまった!慌てて作り笑いをした。その瞬間、「ガブッ」と噛みつかれる恐怖がよぎった。目と目があったが、どんな目をしていたか覚えていない。)

やはり人間の側の調教や家畜化技術だけではああはならないと思った。ま、特殊なケースであって、トラという種の選択ではないだろうが、・・・・・・・・いや、・・・・・もしかしたら、・・・乱獲によって絶滅危惧種になったベンガルトラもあるくらいだから、絶滅を免れる手段として取った行動である可能性も全くゼロとは言い切れないかもしれない。「いのちの世界」はとにかく人知の及ばない智慧、仏教国のタイなら、トラもそれこそ仏の智慧を授かっているかもしれない。

だとしたら、人間との付き合いが増えるにしたがって、いつの日かトラはお寺にましますお釈迦様の像に、御坊さんのお参りの仕方をまねて、前足を合わせてこんな願掛けをするかもしれない。           「お釈迦様、人間に好かれるにはどうも俺は大きすぎるらしい。俺はもうどうにもならないが、生まれてくる子供はもう少し小さくしていただけないでしょうか。」                                  「お釈迦様、どうも俺の顔の模様は恐ろしく見えるらしい。俺はもうどうにもならないが、生まれてくるわが子にはもう少し人間に好かれるような模様にしていただけないでしょうか。」                  「お釈迦様、俺の牙はお寺では全然役に立たない。お坊さんはお米と野菜しかくれないから。それに人間がとても恐れている。俺はもうどうにもならないが、生まれてくるわが子の牙はもっと可愛らしい、丸いのにしていただけないでしょうか。」                         「お釈迦様、俺の声は超重低音の迫力があるが、どうも人間はこわがっている。俺は我慢して声を出さないようにしているが、生まれてくるわが子には一オクターブ高い声を与えてもらえないでしょうか。」                        慈悲深いお釈迦様は、そのトラの願いを不殺生・人との共存の願いと受け止めて、一つひとつを聞き止めて、きっと叶えてくださることだろう。でも、気が付いたら、トラはネコとそっくりになっていたなんてことになるのかもしれない。(笑い)

全く同じように、稲もどこかに時点で人に寄り添う道を選択して、人に尽くしてきた。結果的にそれが功を奏して今日の地球規模の繁栄を謳歌している。稲と双子の兄弟である稗は今のところ風向きが悪いが、これから異常気象が激化する中でその本領が発揮されて、見直される時が来る可能性も十分ある。もともと救荒作物と言われるゆえんだ。

そういうことも考慮して、私たちはもっと稗との付き合い方を変えていった方がいいのではないか。稗に向ける排他的な厳しい視線を、その存在を容認する寛容な視線に変えていけば、稗の憎まれっ子世にはばかる的な生き方も少しずつ変わっていくに違いない。もっともそれには、100年、200年かかるかもしれないが。

生命現象は生命同士の相互作用で展開している。現象世界と「いのちの世界」の相互作用もある。そうして、生命の万華鏡が展開している。そこには尊徳の言うように「本来、善も悪もない。」稲と稗を相手にしながら、そういう生命の曼荼羅の世界に思いをはせて、日々の農作業に関わっていきたいと思う。

稗に心を寄せて(9)

「いのち」は別に脳がなくても自ら思考していると申し上げた。だから、バクテリアでも思考している。すべての生命はちゃんと思考している。ただ、植物は静的な存在で移動できない。だから、動的で脳のある動物よりも「いのちの世界」と強く結びついていて、そこから受ける影響も守られる度合いも動物より強いのではないかと思う。

さて、「自力・他力融合進化」のもう一つの理由をあげよう。トマトの色の例に戻れば、では、トマトはどうやって、緑色の実を赤くすることができるようになったのだろう。その能力はどうやって獲得したのだろうか。突然変異で、偶然に青や、紫や、灰色や、黄色や、いろんな色の実ができたのだが、たまたま赤い実が鳥に好まれて、自然淘汰で赤い実のトマトが生き残ったのだろうか。 私はそうではないと思う。宇宙には叡智が満ち満ちていて、宇宙の一側面である「いのちの世界」も同様だ。その世界が「トマト君、実は赤くした方がいいよ。」と教えてくれているのだろうし、また実を赤くするための方法も教えているに違いない。トマトがそう望んだとしたらの話だが。

数年前に面白い話を聞いた。ガラパゴス諸島のオオトカゲには、二種類あって、海の苔を食べる海のオオトカゲと、サボテンの花が落ちてくるの待ってそれを食べる陸のオオトカゲがいるというのだ。そうやって棲み分けがなされている。ところが、地球温暖化の影響で海の苔が十分に育たなくなっってしまったそうだ。それは、コケを食べるオオトカゲには死活問題だ。すると、どうだろう。コケも食べるし、なんとサボテンに上って、咲いている花も食べる、ハイブリッド種が誕生したというのだ。それなら、コケが減っても海のオオトカゲが生き延びる可能性は高まるのは間違いない。本来なら、何百年、何千年かかって起こるような変化が実にタイムリーに起こっている。私はこれは「いのちの世界」が生き物に働きかける良い例ではないかと思っている。そうやって、環境の変化に適応した種を地上に誕生させているのだ。ただ、そうなると、今度は花が落ちてくるまでのんびりとサボテンの下で待っている陸のオオトカゲは食べ物が奪われてしまうから、危機に陥ってしまう。こちらはどうなるのだろうか?その後の変化が興味津々である。

地球温暖化による生物界の激動が始まっている。生物同士が生息域を巡って、食料を巡って大移動をし、時に激突する事態が誕生しつつある。それは、生物種の絶滅と進化が加速される事態を招いていくだろう。その激変する環境下では、突然変異や自力進化だけでは追いつけない事態が次々に起こっていくに違いない。しかし、「いのちの世界」はその危機を乗り越える能力をあまたの生物に与えていくに違いない。

続く

 

 

稗に心を寄せて(8)

生物は「自力進化」するのか、それとも「自力・他力融合進化」なのか。

私が後者だと思う素朴な理由は、植物の場合がわかりやすいのだが、植物には脳がないのに、間違いなく植物も考えているからだ。例えば、「鳥に食べてもらうには、緑色の実よりも、赤い色の方がいいだろう」と考えて、トマトは実を赤にしたとしよう。では、トマトはいったいどこでそのように考えたのだろうか。根っこに大脳があるのか。葉っぱにはどうもなさそうだ。茎には思考する組織があるだろうか。あまりそんな感じはない。では、根元で、土の表面からわずか1、2cmぐらい中に入ったところ、そこから根も生えだししている、生命の中心をなす部位はどうだろうか。そのような組織はなさそうだが、思考する機能はあるのかもしれない。素人にはよくわからないが、そういう話は全然聞いたこともないから、単純に言って、トマトには脳に相当する部位はないのだろう。小松菜にも、サトイモにも、ナスにも、そのような思考する組織はないと現代科学は考えているのだろう。

それでは、いったい、トマトも小松菜もナスもサトイモもどこで思考しているのだろうか。このようなとても素朴な質問に現代科学は明快で、かつ客観的で、実証可能な科学的な答えを出していないだろう。これは何とも不思議なことだ。この科学万能の時代にだ。

植物は感覚器官を持っている。暑さ、寒さはちゃんと感じている。しかし、感覚器官だけでは思考は成立しないのは明らかだ。それを統合している組織はどこにあるのか。そもそも統合しているのかどうか。どうやら統合していないらしいという科学実験の報告を聞いたことがあるが、その辺もまだ未知の分野のようだ。

しかし、その一方で、私の「いのち」が教えてくれることがある。それは、生きとし生けるものは、「いのち」という感覚器官を持っているということだ。「いのち」は一種の感覚器官でもあるのだ。それを実存生命感覚と呼ぶことにしよう。あるいは、生命は全身の一つ一つの細胞にみなぎっていて、それが統合されているところから生じる感覚なので、生命統合感覚と呼んでもいいだろう。それは小川個人のとんでもない思い込みだとか、幻想だと言われても反論のしようもない。だから、生物学者にとっては、せいぜい精一杯好意的に考えても、「それは宗教的な検討課題だ。」というのが関の山だろう。それで一向に構わないが、その小川の思い込みの話を続けるならば、先にあげたトマトやなすなども、「いのち」という生命統合感覚があるので、外界の情報がすべてキャッチできていている。そして、同時に「いのち」はそのような統合された情報を元に思考している。つまり、「いのち」そのものが思考しているのだ。その個々の「いのち」は見えないし、物質的なものではないのだが、同時に目に見えない「いのちの世界」に繋がっているから、当然ながら、そこの情報も得ていて、そこからさまざまなアドバイスや知識も入手している。トマトはそれらを総合して考えている。そして、決断して必要な行動を取っている。それが、私の考える植物の思考の仕方だ。なお、このような考え方と似たような考え方をしている人は他にもいるから、別に私独自の考えではないと思う。

続く

稗に心を寄せて(7)

このブログの原稿を書いていて、前回初めて「相互進化」という言葉を思いついたら、何のことはない。そういう言葉はすでに存在していて、「共進化」という言葉も目に飛び込んできた。ネットで調べたら、ウィキペディアにもちゃんと載っているではないか。私はいかに無知で、無学であるかを思い知らされた。ちなみに、そこには以下の定義がある。

共進化(Co-evolution)とは、一つの生物学的要因の変化が引き金となって別のそれに関連する生物学的要因が変化することと定義されている[1]。古典的な例は2種の生物が互いに依存して進化する相利共生だが、種間だけでなく種内、個体内でも共進化は起きる。

そして、種間の共進化の例として、次の事例が挙げられていた。

共進化の代表的な例として、ハチドリによるラン受粉がある。鳥は花のに依存し、花は鳥による花粉拡散で生殖が可能になっている。より効率的な花粉媒介を期待するなら、同じ種の花には同じ種のハチドリだけが来るようになっていた方がよい。そのため、花はハチドリの形に合わせ、ハチドリも花からうまく蜜を取るように花に合わせた形に進化する。それによって鳥の嘴は長くなり、花の形は深くなった。

そして、その直後、その方面に詳しい上田恵介教授の話が見つかった。実は、上田先生は2年前に自然耕塾に参加された先生だ。不思議なご縁だ。もしかしたら、当時上田先生は私のこのような話をにやにやしながら聞いていたのかもしれない。上田先生のお話はとても分かりやすいので、以下に引用させていただくことにする。

──植物とそれ以外の生物にもやはり「共進化」が起こるわけですか。

上田 もちろんです。例えば、果実にはいろんな色や大きさ、味がありますよね。モモやリンゴなどの甘くて大きな果実は、人間が長い栽培の歴史の中で改良を重ねていったものですが、ヒトがいなかった時代、それらの原種は小さくて甘味も少なかったでしょう。じゃあ、それらが何のために存在していたのかというと、鳥やサルたちをおびき寄せるためです。

──種を運んでもらうために?

上田 植物の中には、さやがはじけて種子を遠くへ飛ばしたり、風に頼って分散を図るのもいます。これらの方法だと、あまり重い種子をつくるわけにはいきません。しかし、軽い種子では発芽率、定着率も悪くなります。種子のために十分な養分を蓄えてやること、遠くへ分散させること、動けない植物がこの相反する矛盾を解決するために生み出した方法が、鳥やサルを引き寄せるための果肉をつけることだったのです。そして、甘くしたり、ちょっとでも目立つ色にすればあちこちに運んでもらえます。

野山を歩くと緑や茶色の実よりも赤い木の実が多く目につきますよね。あれらも鳥に種子を運んでもらうために、果肉をつけ、目立つような色になっていったんです。また赤い色にはもう一つ効果があります。赤は鳥には見えやすく、種子を食害する昆虫には見えにくい色なので発見されにくい。もし、発見されたとしても鳥が食べにやってきてくれるわけです。

そして、以下のナメクジの話は傑作だ!爆笑しないわけにはいかない。

 

 


ヨーロッパにはイヌの糞に擬態したナメクジがいるそうですが…。

上田 初めて見た時は、ほんとにギョッとさせられました。最初は冗談で考えついたんですが、よくよく考え直してみると、やはりあれは人間に踏まれないようにしたナメクジの知恵なんだと思います。

──どんなものなんですか。

上田 割と大きいです。大きさは親指くらいありますから、10−p近いと思います。ちょうど中型犬の糞と同じくらいですね。色も少し赤っぽい茶色と、黒に近い焦げ茶色と2種類あります。

この2種類あるのも意味があるんじゃないかと思います。一つなら恐らく見破られてしまうけれども、2種類が混ざって存在することによって撹乱できる。こっちはナメクジかも知れないけど、こっちは本物かも知れないとか、つい迷わされてしまう、というのはかなり効果的な意味を持っているわけです。

──人間も選択者なんですね。

上田 ですから、人間も進化を促す役割を持っているんです。

そうなのだ。人間も進化を促す役割をになっているのだ。人間と生き物との間で数々の共進化が生じているのは間違いない。ただ、私と上田先生の認識の違いは、私が「いのちの世界」も進化にかかわっている、つまり、「他力・自力融合進化」のことを言っているのに対して、上田先生は学者だから、基本的には種それぞれ独自の「自力進化」という立場なのだろうと推察する。今度一度ぜひ大家族にお越しいただいて、詳しくお話ししていただきたいと思うようになった。

続く

 

 

稗に心を寄せて(6)

ここまで読んできて、読者の中には私が今の稗と昔の稗は性質が違ったと考えているのではないかと、感じられた方もいらっしゃるかもしれない。その方は大変深い読みをされている、敏感な方だ。実は、そうなのだ。

これは生物はどのようにして進化するかという問いにつながる。

私は19年間農業に手を染めているが、作物を見つめていると、おのずからそれらはどのようにして進化してきたのか、またその土地にどのようにして適応してきたのか、考えるようになる。もちろんどのように品種改良されてきたかということも考える。作物の場合は品種改良が一番大きく影響しているのは言を俟たない。

田畑の自然を観察していて得た結論の一つは、目の前にある「現実世界」と、すべての命の源である、目に見えない「いのちの世界」があるということだ。これは、たぶんに便宜的な言い方だが、わかりやすいので目に見える「現実世界」あるいは「物質世界」と、目に見えない「いのちの世界」と分けている。そのような認識については古来多くの宗教者や賢者が同じようなことを言っている。私もそれに同意するということだ。そして、現実世界と「いのちの世界」は溶け合って一体化していて、相互に影響し合っている。同時に、一つ一つの個別の生命も他の命と結びついていて、なおかつ「いのちの世界」とも結びついている。これも古来から言われてきていることだ。私もその通りだと思う。

それでは、稲と稗の関係について、そこに進化の概念を当てはめてみよう。ちょっと前までは稲と稗は遺伝子が同じだと言われてきたくらいだから、昔からその姿はとても似ていたのだろう。しかし、人に好かれる稲と、嫌われる稗とは、まったく別の運命(=進化)をたどらざるを得なかった。稲は人の願いや希望を知り、それに自らを近づけることで人に愛され、もっと多く栽培してもらえるように心掛けてきた。私たちは2000年前の稲の姿を見ることもその性質を知ることもできないが、もしそれができたなら、きっと今の稲とはいろいろな点で違っていたことだろう。もちろん、一番大事な種=米はもっと小さかったことは容易に想像がつく。人の最大の関心事はそこにあっただろうから、例えば、突然変異して、大粒の実をつけた稲株を人は大事に保管して、別に育てることもしただろう。稲は、実だけでなく、その体、すなわち藁も、実を入れる袋、すなわち籾さえも人の役に立ってきた。稲は捨てる部分が何もない植物だ。その点で稲に勝る生き物はないだろう。例えば、藁には発芽を抑制する成分が含まれているが、それは畑で野菜の間に敷けば、草を抑えるのに役立つ。そのような発芽抑制の働きは麦には乏しい。たまたまそういう成分を有していただけだということももちろんできる。しかし、私にはそういう特徴は稲が人に協力するために自らをを変えてきた成果であるように思えてならない。そして、そのような能力は「いのちの世界」の力を借りて初めて実現できることであろうと思っている。なぜなら、「いのちの世界」には生物の進化に関する38億年の情報と進化を可能とするありとあらゆる処方箋(=マニュアル)が用意されているからだ。

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(ピーマンのカブもとに藁を敷いて草を抑えている)

全く、同じように、稗も「いのちの世界」の力を借りて自らの能力を高める努力をしてきたに違いない。稲との違いは、人から嫌われる稗は、おそらく稲よりもずっと真剣に切磋琢磨しただろうし、また多くの知恵と力を「いのちの世界」からもらってきただろうということだ。「いのちの世界」は、地上のすべての生命を繁栄繁茂させる世界だから、とりわけ、その命、つまり、その種が生存の危機に立たされているときに強く働きかける。その生き物にその窮地をうまく潜り抜ける知恵や力を与える。それが突然変異を引き起こす。稗でいえば、例えば、田植えの前には生えてこないで、田植えの後からそおっと生えてくる知恵は、そのいい例だ。田んぼの稗も食していたであろう2000年前には、まだそのような発芽の仕方ではなかったのではないだろうか。また、前にも言ったように、稗は第1弾の発芽から始まって、第2弾、第3弾と、時期をずらして、何回でも発芽してくるのも、人の草取りの仕方を情報として蓄えている「いのちの世界」が稗に教えて、その回避策を与えたのではないかと思う。

こうして、私はダーウィンの進化論とは全く違った進化論を論じている。ダーウィンは、突然変異と適者生存の原理で、生物は進化してきたと言っている。現代の遺伝子工学や生命科学の進歩でもはやその理論はあまり現実的ではないことが証明されつつあるようだが、私が言っているのは、進化は、生命同士の相互作用と、生命と「いのちの世界」の相互作用によって起こるという仮説で、むしろ宗教的な見方に根差した考え方だ。生命同士の相互作用だから、長い時間の尺度の中では、双方が共に進化する、すなわち、「相互進化」ないし、「共進化」が生命間で生じているのではないだろうか。

続く

 

地力の差

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自然耕塾11回目は、いよいよ収穫の技=脱穀が主たる実習となりました。4畝の不耕起冬期湛水の田んぼの稲束は高性能の脱穀機で素人でもみるみるうちに脱穀されて、50分ほどで脱穀作業は完了しました。並行して、藁は手分けして田んぼに戻しました。

ちょっと休憩してから、「今日は、脱穀作業に習熟していただきます」と話して、川を挟んだ反対側にある、普通に耕した有機栽培の3.6畝田んぼの脱穀も手がけました。そこでは、藁を束ねる作業や押し切りで藁を切る作業も体験してもらいました。自然耕塾@相模原では、そのようにして、自給自足を目指す人にも、専業農家を目指す人にも少しでも多くの異なった技術を身に着けてもらえるように努めています。

 

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そうして、最後に不耕起冬期湛水の田んぼで取れたお米の袋数と、有機栽培の田んぼの米袋の数を並べてみたところ、全員がびっくり。なぜかというと、みんなで一年間丹精込めて育てた冬期湛水の田んぼの収量よりも、ほんの少ししかか面倒をみなかった有機栽培の田んぼの収量の方が格段と多かったからです。

その最大の違いはなにかというと、地力です。どちらにも全く同じように肥料を与えているにもかかわらず、川を隔てた左側と右側という、それだけの違いで、そのような大きな違いが実際生じるのです。

これで、今回の最大の学びが明らかになりました。地力の差はとても大きい!借りるなら、地力のある田んぼを手に入れよう!         塾生としたら、できれば、収量の多い方が一年間面倒を見た冬期湛水の田んぼであってほしかっただろうと思います。私も心情的にはそうです。しかし、自然は厳しく、ときに冷酷です。全然見たくない現象を見せつけられることがあります。大切なのは、心情に反する事実であっても、その事実を冷静な心でしっかりと受け止めて、冷徹な目で自然から客観的に学ぶことです。そして、その事実が好ましくない、不都合なことであるならば、それを改善するためにさらに知識を求め、知恵を働かせることです。そうやって、一歩一歩与えられた自分の田んぼを良くしていく努力を重ねていく。それが米作りの営々たる営み、すなわち、人と自然とが織りなす一体化の営みとなっていきます。

以上