一寸長くなりますが、「農」に関心ある方は、よろしければお付き合いください。
なぜ作物を栽培するのか。それは、自分や家族の命を養い、その命を繋ぐためです。人類はそのために自然に手を加えて、田んぼや畑を作ってきたわけです。だから、種を播いたら、どんなことがあっても、なにがしかの成果を出して、つまりなにがしかの収穫を得て、自分や家族の命を養えるようにならないといけないと思います。
ここに「農」の営みの原点があり、栽培の最大の目的があり、栽培者の最低限の責務があると考えています。
巷で耳にする様々な農法や栽培技術は、その原点と目的と責務を実現するための参考であり、方便です。
ところが、往々にして、そのような農法や栽培技術の正しさを実証するために作物を栽培すると言う本末転倒が起こりがちです。知識優先の関わり方をする人が少なくありません。
しかし、そのような知識や技術を通してしか作物を見なくなると、今目の前にある作物がどのような状況になって、何を欲しているのか、わからなくなってしまうことがあります。作物を育てるということは、本来、自分の命と作物の命の交流や響き合いの中で、自分の収穫の願いを叶えてもらうために、作物に今何をしてやればいいのかを問いつづける営みです。 そこには本来農法も農業技術も知識も不要なのです。それよりもずっと大切なのは、作物を労わる気持ちや作物との対話、そしてその作物の命の働きを感じ取る感性を磨くことです。
最近、気になっているのは、どうも広義の自然農法や自然優先の農業技術の中に肥料を与えないこと,つまり、無施肥が理想のように言われていて、それを実行したいと思っている人が増えているらしいということです。消費者もそういう野菜のほうがいいんだという漠然とした印象を持っている人が増えているようです。
しかし、肥料を与えるか、与えないかという選択は、上で述べた「作物を労わる気持ちや作物との対話、その作物の命を働きを感じ取る感性」が決めるべきものです。栽培の初めから無施肥にすると決めてしまうと、その土地の状況によって、とんでもない結果、つまり、極端な生育不良になったり、病虫害に犯されたりして、無収獲という結果を招くことにもなりかねません。
土地の健康度や肥沃度も知らないで、無施肥でやるんだと、ずっとこだわっていると、何年やってもまともな収穫が得られないという、失敗続きになることも起こり得ます。すると、栽培の最大の目的であった「自分や家族の命を養うこと」ができなってしまうことになります。
ですから、私は、栽培者は「種を播いたら、なんとしても収穫を得るんだ。」という、収獲への執念を持たないといけないと思います。そのためにどんなにひどい土地であっても、悪い環境であっても、作物と良く対話して、作物の望みを叶えられるように、肥料を上手に投入するなど、様々な知恵を働かせ、工夫を加えることが栽培者の第一の務めになるのだと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、上のなすの写真を見てください。この写真は12月1日に撮影したものです。まだ、こんなに稔っています。普通なら、10月中旬でなすの収穫は終わります。今年は7月、8月の異常気象でなすも相当痛めつけられたので、収獲終了がもっと早くなっても不思議ではありません。
しかし、私は異常気象の間にも例年通りナスの様子を見ながら追肥をやり続け、活力剤を時々散布しつづけたところ、9月下旬からなすはだんだん元気を取り戻し、10月になってもどんどん新しい葉を茂らせました。
気が付けば11月になってもとても元気で、つやつやした実を成らせ続けました。
そして、例年より暖かい11月だったことも味方して、気が付けば今年のナスは霜でやられるぎりぎりの11月末まで成り続けたのです。これは私の畑では最長記録です。
これを可能としたのが有機肥料です。有機肥料はこんな力があるのです。
今後、異常気象が常態化して激しさを増していきます。また中国から汚染物質が大量に飛来して、大地をどんどん酸性化しています。そのような現実を踏まえると、その土地が持っている”自然力“だけではどうにも太刀打ちできない事態が増えていくに違いありません。そういうときに、その弱点を補ってくれる最大のものが肥料です。その力を上手に活用することで栽培できる作物の種類は格段に増えるし、栽培期間も伸ばすことが可能となります。
私は無肥料栽培も有肥料栽培も両方行っていますが、どちらで栽培するにせよ、肥料の力について正しく知っておくことが必要不可欠だと思います。それを上手に使いこなせるようになるのが、「和み農」の第6番目にある「技能を磨く」ことに通じます。
ついでに、12月1日時点の不耕起栽培のトマトの様子もご紹介します。無施肥だったら、9月以降全く実を付けなかっただろうと思います。
小川