稗が知恵者であることをもう少し視野を広げて考えてみよう。
話がちょっと飛ぶように思われるかもしれないが、二宮尊徳の話をまとめた『二宮翁夜話』に次のような話がある。
「善悪の話ははなはだむつかしい。根本を論ずれば、善もなく悪もない。善と言って分けるから、悪というものができるのだ。善悪は人間の考えからできたもので、人道上のものだ。それゆえ、人がなければ善悪はなく、人があってのちに善悪があるのだ。」と尊徳はちょっと哲学的な話を始める。そして、話の途中でこんな法話を引き合いに出す。
『涅槃経』にこの喩がある。ある人の家に容貌の美しく端正な婦人が入ってきた。主人が『どういうお方ですか』と問うと、婦人が答えて、「私は功徳天である。私が行くところ吉祥・福徳が無限である。」と言う。主人は喜んで招き入れた。婦人が「私に随従する女が一人いる。必ずあとから来るから、これも招き入れてください」と言う。主人は承知した。そのときに一女が来た。容貌醜悪で、いたってみにくい。「どういうお方ですか」と問うと、この女が答えて、「私は黒闇天である。私の至るところ不詳・災害が無限である」と言う。主人がこれを聞いて大いに怒って、「急いで立ち帰れ」と言うと、この女が言うには、「前に来た功徳天はわが姉である。しばらくも離れることはできない。姉を泊めるなら自分も泊めなさい。われを出すなら姉も出しなさい」と。主人はしばらく考えて、二人とも出してやったところ、二人はつれ立って出て行ったということを聞いた。これ生者必滅・会者定離の譬えである。死生はもとより、禍福・吉凶・損益・得失みな同じだ。もともと禍と福とは同体で一つのものだ。吉と凶とは兄弟で一つのものだ。すべてのことはみな同じだ。いまもそのとおりで、通勤するときは近くてよいと言い、火事だと言えば遠くてよかったという。これでわかろう。」
私はこの功徳天と黒闇天の話は分かりやすくて、好きだ。 私たちにとって、稲は善であり、稗は悪である。つまり、稲は功徳天であり、稗は黒闇天のような存在なのだ。しかし、尊徳は本来「善もなく、悪もない」と言う。「善と言ってわけるから、悪というものができるのだ。」 その通りだと思う。私が感じるのは、本来稲と稗は双子の兄弟で、「しばらくも離れることはできない」のだ。それを無理やり稗だけ田んぼから引き離そうとするから、黒闇天である稗は離れまいとしてその知恵を強く働かせるようになる。ましてや、黒闇天を滅ぼそうなどと考えたら、大変な仕返しをくらうことになるだろう。稗個別撃破の除草剤がもたらす災禍はどんなものになるのだろうか。考えただけで恐ろしくなる。
続く