稗に心を寄せて(5)

それでは、「しばらくも離れることができない」稲のほうはどうなるのか。双子の兄弟が弟を失った時に、兄はどうなるのか。あるいは、弟が兄を失った時に、弟はどうなるのか。そのことも考えなければならない。

とは言うものの、化学農法で大規模に米を作っている農家からすれば、こんな話は愚の骨頂に聞こえることだろう。彼らの田んぼに稗がなくなってから、もう20年も30年も経っているところも無数に存在するだろう。「それでも、俺は普通に米を作っている。」と。私の田んぼでも稗の出ない田んぼがいくつかある。そこでも生命力のある、おいしいお米が取れている。だから、稗がなくなっても、稲は何も悪い影響は受けていないとも言える。だとしたら、私が言っていること自体に矛盾があるのではないか。

ここで注目すべきは、私たちが稲に寄せる思いと、稗に寄せる思いの差だ。私たちは稲を好ましく思い、稲を育てようと思う。稲は人間から愛されている。だから、稲は兄弟である稗を失っても元気に生きていくことができる。それに対して、農家は稗を邪魔者か悪者だと思っていて、稗を田んぼや田んぼ周りから徹底的に排除しようとしている。だから、稗は辛い。が、それでも、(稲に励まされて、)自力で必死に生き残ろうと様々な技を開発して、今日まで生き延びてきた。稲と稗にはそこに根本的な立場の違いがあるのだ。

「憎まれっ子、世にはばかる」という言葉がある。稗はその典型だが、それはあまりに憎まれる側の気持ちを無視した言葉だ。憎まれる側は必至なのだ。その気持ちを少しでも汲んであげたら、稗はきっとほろりと涙を流すことだろう。

続く

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