稗に心を寄せて(8)

生物は「自力進化」するのか、それとも「自力・他力融合進化」なのか。

私が後者だと思う素朴な理由は、植物の場合がわかりやすいのだが、植物には脳がないのに、間違いなく植物も考えているからだ。例えば、「鳥に食べてもらうには、緑色の実よりも、赤い色の方がいいだろう」と考えて、トマトは実を赤にしたとしよう。では、トマトはいったいどこでそのように考えたのだろうか。根っこに大脳があるのか。葉っぱにはどうもなさそうだ。茎には思考する組織があるだろうか。あまりそんな感じはない。では、根元で、土の表面からわずか1、2cmぐらい中に入ったところ、そこから根も生えだししている、生命の中心をなす部位はどうだろうか。そのような組織はなさそうだが、思考する機能はあるのかもしれない。素人にはよくわからないが、そういう話は全然聞いたこともないから、単純に言って、トマトには脳に相当する部位はないのだろう。小松菜にも、サトイモにも、ナスにも、そのような思考する組織はないと現代科学は考えているのだろう。

それでは、いったい、トマトも小松菜もナスもサトイモもどこで思考しているのだろうか。このようなとても素朴な質問に現代科学は明快で、かつ客観的で、実証可能な科学的な答えを出していないだろう。これは何とも不思議なことだ。この科学万能の時代にだ。

植物は感覚器官を持っている。暑さ、寒さはちゃんと感じている。しかし、感覚器官だけでは思考は成立しないのは明らかだ。それを統合している組織はどこにあるのか。そもそも統合しているのかどうか。どうやら統合していないらしいという科学実験の報告を聞いたことがあるが、その辺もまだ未知の分野のようだ。

しかし、その一方で、私の「いのち」が教えてくれることがある。それは、生きとし生けるものは、「いのち」という感覚器官を持っているということだ。「いのち」は一種の感覚器官でもあるのだ。それを実存生命感覚と呼ぶことにしよう。あるいは、生命は全身の一つ一つの細胞にみなぎっていて、それが統合されているところから生じる感覚なので、生命統合感覚と呼んでもいいだろう。それは小川個人のとんでもない思い込みだとか、幻想だと言われても反論のしようもない。だから、生物学者にとっては、せいぜい精一杯好意的に考えても、「それは宗教的な検討課題だ。」というのが関の山だろう。それで一向に構わないが、その小川の思い込みの話を続けるならば、先にあげたトマトやなすなども、「いのち」という生命統合感覚があるので、外界の情報がすべてキャッチできていている。そして、同時に「いのち」はそのような統合された情報を元に思考している。つまり、「いのち」そのものが思考しているのだ。その個々の「いのち」は見えないし、物質的なものではないのだが、同時に目に見えない「いのちの世界」に繋がっているから、当然ながら、そこの情報も得ていて、そこからさまざまなアドバイスや知識も入手している。トマトはそれらを総合して考えている。そして、決断して必要な行動を取っている。それが、私の考える植物の思考の仕方だ。なお、このような考え方と似たような考え方をしている人は他にもいるから、別に私独自の考えではないと思う。

続く

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