今ここに「いのち」あることが希望である

医学、教育、福祉、そして農業は生命にかかわる生業である。医学と教育と福祉は人の「いのち」と「いのち」が直接係わりあうのに対して、農業は直接自然界の「いのち」と関わり、食物を通して間接的に人の「いのち」や健康と関わる。「いのち」と関わる生業に従事する者は、「いのち」に対する自分なりの倫理観や道徳観をしっかりと持っている必要がある。その「いのち」を見つめていくと、自ずから地球を取り巻く宇宙にまで思いが至る。

「いのち」は間違いなく宇宙と繋がっている。

さて、生命について、「いのち」について、人類の進化という観点で少しばかり哲学的な考察を加えてみたい。 それが混迷を極める現代世界において、生きる指針、あるいは人の進むべき方向性を提供してくれると思うからだ。したがって、この章は、上に挙げた生業についている人や、農業に関心がなくても「いのち」に関心のある人にも読んでいただきたいと思う。

 

利己的な欲望が未来を絶望的にする

今、世界に目を向けると、地球温暖化ばかりでなく、様々な環境問題があり、それと複雑に絡まって、世界には水、エネルギー、食糧、貧困、飢餓、テロと戦争や紛争、エイズ、感染症など、実にさまざまな難問が山積している。世界経済もその脆弱さを露呈している。このような状況下、これからの世界は何をきっかけに連鎖反応が起こるかわからない。そして、地球規模で未曾有の緊急事態が発生する可能性は間違いなく高まりつつあり、しかもその予測はますます困難になってきている。

それもこれも、その根本原因は、20世紀の資本主義経済が人間の利己的な欲望を開放しすぎたことにある。それまではどの社会でもそれなりに宗教や共同体、地縁血縁の絆などによって、随所でブレーキがかけられていたために、人間の欲望が暴走することはまれだった。ところが現代は世界中で欲望と欲望が激しくぶつかり合い、頻繁に暴走している。とりわけ、金(かね)に対する飽くなき欲望が人間社会に一定の秩序をもたらし、自然生態系を守ってきた倫理や道徳を片っ端から破壊しつつある。その欲望と利己主義(エゴ)にブレーキをかけられない今の世界は、必ずや近い将来破局を迎えるに違いない。利己的な欲望の対極にあるのは、利他愛と共生本能だが、それが欲望に取って代わらなければ、人類社会は壊滅することだろう。そのとき地球環境はぼろぼろで、他の生物も絶滅に瀕しているのではないか。私はかつてそのような悲観的な見方から将来に対して絶望的になることがしばしばあった。

 

神秘に満ちた生命の世界

しかし、そんなときに「いのちの世界」に目を向けると、いつも生きる勇気と希望が湧いてきた。
生きることの楽しみは人それぞれ千差万別だろうが、私は生命の神秘を見詰めることが楽しみの一つだ。生命は見詰めれば見詰めるほど神秘的で、不思議に満ちている。初孫が誕生したときのことだ。日々その変化と成長の姿に接していると、非常に明確な一つのメッセージが伝わってきた。それは、

生命の誕生と日々の成長は限りない希望であ

という「いのちの世界」からのメッセージだ。孫が誕生した時に覚えた感動と、蒔いた種から芽が出たときに覚える感動は、感動の大きさこそ異なるが、「いのち」の誕生を喜ぶ私の「いのち」の反応という点で、本質的に同じ種類の感動だ。

ところで、生まれたばかりの赤ん坊は植物状態に等しく、しかも自分で自分の身の安全を守ることすら全くできない、無防備で無能な存在だ。できることは泣くこと、おっぱいを吸うこと、眠ること、そして排泄することぐらいで、これはどうみても進化の大失敗作としか思えない。しかし、このあまりに無防備で、無能で、母親に100%その生命の維持を依存した存在を前にすると、私たちはその生命をなんとしても守り、育てていきたいという衝動に駆られてしまう。私たちの命がそのように感じさせるのだ。それは理屈でも、義務感でも、思想でも、道徳意識からでもない。

地球上のあらゆる生命現象界を捉えて「地球生命の世界」とか、もう少し縮めて「いのちの世界」と呼ぼう。今、私が思い、感じるのは次のようなことだ。

個々の「いのち」は「いのちの世界」と繋がっている。ヒトは心を澄まし、耳を澄ませば、心の奥深くに「いのちの世界」の思いを感じ、その声を聞くことができる。

 

赤ちゃんの適応能力欠如の意味

 さて、その植物状態の赤ん坊が日に日に成長していく過程は興味が尽きない。赤ん坊は回路がでたらめに配線されて組み立てられたために手足がとんでもない動きをするロボットのようだ。手がまともにおもちゃをつかめるようになるだけでも5ヶ月も6ヶ月もかかるのだから、不器用極まりない。人間の赤ん坊だけがなぜ他の動物と違って、これほどまでに不完全な状態で生まれるのだろうか。これが進化の頂点に立つヒトという種が自ら選んだ選択であろうか。どう考えてもそうとは思えない。ただ事実においてヒトという生物はその生命の誕生の初めに母親とその家族から無限と言えるほどの手間ひまをかけて面倒を見てもらい、愛情を注いでもらわないと、ヒトとしてまともに成長できない。そのような大きな回り道をするように仕組んだのは誰だろうか。私は「いのちの世界」の仕業だと思う。それは神の御業と言ってもよい。

ヒトの進化に「いのちの世界」は深く関与している。

 

興味尽きない擬態

枯れ葉の形にそっくりな甲羅をもった熱帯の虫、ランの花そっくりの色と形をした熱帯のカマキリ、木の枝そっくりの形をしたナナフシなど、世界中の虫の中には実に見事に周りの物や生き物にそっくりの色や形をした物まね名人がいる。私はどうやって彼らはそのような形態や能力を獲得できたのか、昔から不思議でならなかった。学校で習った、突然変異と適者生存(自然淘汰)の法則だけでそのように進化したという説明ではどうしても納得できなかった。なぜなら、彼らの真似の仕方は絶妙で、その姿は、どれも巧みの世界の熟練工にしかできないような芸術作品だからだ。それがただの偶然の積み重ねで起こったとは到底思えない。例えば、ランそっくりのカマキリは自身を鏡に映さなくてはそっくりかどうかわからない。それをどうやって知り、どうやって生んだ子どもがランそっくりになるようにしたのだろうか。子供っぽい言い方をするならば、私は「いのちの世界」が鏡を提供し、そっくりに整える理髪師の役も化粧係もしたのだと思っている。つまり、擬態はその生き物の”願い”を知り、その願いを実現しようとするただならぬ “努力”を知った「いのちの世界」が手を貸して、DNAに働きかけて実現したのではないだろうか。と同時に、「いのちの世界」がそのような生き方をする生物を創造したいと思っていたから、その声を聞き入れたのではないだろうか。おとぎ話の様で恐縮ではあるが、

地上のあらゆる生物の進化はその生物の「いのち」と「いのちの世界」の相互作用、共同作業によって起こっている。

これが進化の真実ではないかと感じている。

 

ヒトの進化の方向と現代人の方向のずれ

ヒトの話に戻ると、「いのちの世界」との相互作用、共同作業で決められたヒトの進化の方向は、他の生物とは大きく違っている。ヒトは明らかに地上環境への完全な適応を目指してはいない。誕生のときから、私たちは環境不適応の極みを演じている。その意味は一体何だろうか。やはりヒトという種は地上的な様々な制約、ある意味で逆境の中でほどほどに衣食住の満たされた生活環境を作り、その上で愛とか、調和とか、理想とか、創造とかいった、精神的な形質をどのように完成させるかを課題として与えられた生物のようだ。その点で、ヒトは「最適な環境」という概念を必要としない、唯一の生物かもしれない。ヒトにとって、生活環境は精神的な進化のために必要な物質的、社会的な制約や条件なのだ。現代の先進国の侵した大きな過ちは、自然環境を大規模に破壊して、ヒトにばかり好都合で人工的な最適な生活環境を作りあげ、物資的な豊かさを人生の目的とする世界を作ってしまったことだ。それは、ヒト本来の進化の方向から大きく逸脱している。今、起こっている温暖化などの地球の諸問題は、そこに根本原因があると気づかねばならないのではないか。

「いのちの世界」がヒトに託したのは、自然と調和した生活環境で、精神的な形質の向上と飛躍(進化)によって精神世界を豊饒にすることである。

 

「いのちの世界」は無尽蔵の総合情報センター

「いのちの世界」は地上に生命が誕生した38億年前から今日に至るまでの連綿たる生命のリレーが行われている世界だ。そこには一瞬たりとも命が途切れたことはない。その意味は非常に重要で、私たちヒトもその生命のリレーの中で生存の為に必要なもの(能力や形質や智恵)を全て遺伝情報として受け継いできているということだ。発生学がその一端を伺垣間見せてくれる。「いのちの世界」にはそのような無限大ともいえる地球の歴史と生命の情報が保管されているように思う。だから、ヒトという種はかつてあったであろう全ての地上の出来事には十分対応していけるだけの智恵を自らのうちに持っているのではないだろうか。それが呼び出せないなら、「いのちの世界」に意識を向ければ、そのような情報を自らの生命感覚で捉えることが可能なのではないだろうか。

例えば、こういうことだ。私は一歳の時に肺炎にかかって、病院に担ぎ込まれた。幼児期の肺炎は命取りになりかねない。私の担当医師は当時開発されたばかりのクロロマイセチンという抗生物質を投与した。私の熱が下がったのはよかったが、体温が急降下して、35度台まで下がってしまった。その急変する様子を見ていた父は、私の足に触ると、異常に冷たくなっていることに気付いた。父はとっさの判断で湯を沸かし、湯たんぽを作って、私の足に当てた。すると、体温が戻ってきて、顔色が戻ってきた。その話を後で担当医師にしたところ、その医師の顔が一瞬青ざめたそうだ。当時クロロマイセチンはまだ新薬で、その医師は赤ん坊に投与すべき適量を心得ていなかったのだ。もし父があの場で湯たんぽを私の足に当てていなかったら、私は「いのち」を失っていたことだろう。そうやって、父は私の「いのち」を救ってくれた。父は何の医学的な知識も持ち合わせていなかったが、「いのち」が持っている感覚、すなわち”生命感覚”に従って、適切な行動を取ったのだ。私の理解はこうだ。父の「いのち」は「いのちの世界」と繋がっていたから、その総合情報センターから瞬時に最適な情報を取り出すことができたのだ。

 

「いのちの世界」の智恵を引き出そう

環境大破壊の時代にあって、日本を含む先進国の人々が最優先課題として取り組むべきは、「いのちの世界」との繋がりを復活させてその智恵を引き出すことだ。言い換えれば、神との繋がりを取り戻して、神の智恵をいただけるようにならないといけない。そうすれば、必ずや山積する人類の諸問題に解決の糸口が得られることだろう。いや、すでに世界中で多くの人々がその智恵を蘇らせたり、引き出したりして、それを生活の中で生かして日々を静かに送っているか、あるいは活発に、未来に希望を持って活動している。「いのちの世界」と繋がりを取り戻すのはその気になれば、さほど難しいことではない。前述のとおり、心を澄まして、自身の命に、体や心の声に耳を傾け、自身も本来その一部である自然界に耳を傾けることだ。土と触れあうことも有意義だ。霊性を高める業もいいだろう。人の幸せを一心に祈ることもいいだろうし、もちろん、直接神に祈ることもできる。そうして、生命感覚を呼び覚まし、私の「いのち」の全身感覚を蘇らせることが大切だと思う。

「いのちの世界」としっかりした繋がりが復活すると、周りで何が起ころうとあまり動じなくなる。なぜなら、そういう人たちは自分の力量を心得ていて、それぞれの能力と与えられた環境において自己の精神的な形質(=個性)を向上させるというヒトの進化の方向に沿った生活をして、ぶれなくなるからだ。

「いのち」は「いのち」自ずから、進むべき方向と採るべき行動を知っている。

 

今ここに「いのち」あることが希望である

「いのちの世界」は常に進化の過程にある。進化とは、”人生にとっての意味”という視点から言うと、希望である。今私たちが生きていること自体が進化の実現した姿であり、次への一過程でもある。だから、進化の意味は”困難は乗り超えられる”、”よいほうに変わることができる”という意味だ。

それでは、「いのちの世界」とはいったいなんのことだろうか。

「いのちの世界」とは今生きて「いのち」あるものを無条件に全面的に生かそうとする宇宙の働きのことだ。

それを「神の大愛」とも言う。仏教に言う如来や観音の「大慈観」の顕れとも言える。

そのような働き、そのような神や仏の意志の表れが進化という現象であり、それが希望の本質ではないだろうか。

今私たちがこうして生きているということは、そのまま、今生かされているということにほかならない。それは神の愛、あるいは仏の慈悲に包まれているということに他ならない。

私もまた地球環境に関心のある多くの人々と同じように、今の地球環境の急激な悪化や生物種の絶滅に心を痛める人間だ。しかし、「いのちの世界」に思いを馳せると、心が安らぐ。この地球は大丈夫だという思いになる。

できれば、読者にはこの章の太文字の文だけでも声に出して繰り返し読んでみていただきたい。それらは全て私の生命感覚が捉えた事柄だ。だから、それらの言葉は読者の生命感覚に響くようになるかもしれない。そして「いのちの世界」と繋がるきっかけとなるかもしれない。

私は「いのち」という、この喩えようもなく奇すしく、比べようもなく尊い神様からの賜り物に手を合わせて日々拝んでいる。

「いのち」は私にあって私を遥かに超えた存在である。

私は、今ここに「いのち」あることを神に感謝して、これからの日々を大切に生きていきたい。

 


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