アメリカ同時多発テロから半年後の2002年の春、ちょうど桜の花咲く頃、相模原市の市民有志がパレスチナ難民の子供5人と先生一人、計6人を相模原市にお招きしたことがあった。そのとき、縁あって、私の家(当時は寄宿生活塾 五色塾)で一週間寝食を共にする機会をいただいた。当時パレスチナと言えば、アラファト議長も健在で、テロリストの巣窟のようない悪いイメージがあって、正直私も受け入れには不安がないではなかった。しかし、能天気の夫婦は「どうにかなるよ」とばかり、二つ返事で受け入れた。その1週間は私の家族にとって生涯忘れ得ぬ思い出となった。
私はつくづく思った。同じ人間がどうして生まれた場所が違うと言うただそれだけの理由で、一方はイスラエルに国を奪われて難民となって40~50年、不自由と貧困と苦痛に苛まされ、繰り返されるイスラエルの爆撃になすすべを持たずに死への恐怖と隣り合わせで、怒りと絶望の渦巻くスラム世界に生き続けねばならない運命を背負っている。一方は何一つ不自由がなく、便利で快適で豊かな現代生活と、夢と希望を叶える機会と幸運に…恵まれて生活している。この埋めようのない矛盾に満ち満ちた二つの世界の人間が共に同じ屋根の下で生活をしたのは、何とも不思議な巡り合わせだった。
パレスチナの子供達は少なくとも表面的には全く屈託がなく、むしろ日本の子供達よりずっとエネルギッシュで、私たちの事前の予想を完全に覆した。しかし、聞けばやはりみな親族や親せきを失って、心に癒しようにない深い傷を負っていた。
(小6の子は、家族の面会が終わるや否や、外に飛び出して、自転車に飛びついた。倒れても、転がっても、無我夢中で自転車を乗りこなそうとした。何とか乗れるようになっても、何かに突撃しないと止まれなかった。事故に遭わなかったのは、奇跡だった。聞けば、難民キャンプではお金持ちの子しか自転車を持っていないのだという。5人中4人が自転車に夢中になった。)
彼らは2週間日本に滞在し、あちこちに招待され、東京見物などもして、物質文明の大輪咲く日本に圧倒されて、パレスチナに帰って行った。帰国直前に聞いたら、皆が私の家で過ごした一週間が一番楽しかったと言ってくれたそうだ。それを後で聞いて、本当にうれしかった。しかし、我が家は彼らのために特別なことは何もしなかった。ただ、一週間同じ人間として暮らしただけだ。同じ人間として。
それは、おそらくヨーロッパ人の妻の人道主義の感覚と、私と子供たちがドイツやマレーシアの生活で知らず体に染みついた人間の生活の元にある感覚だったのだと思う。
その感覚、「同じ人間なんだから」という感覚が今の日本人の間ではなぜか難民問題では麻痺したままだ。
シリア難民の受け入れにドイツを始めとするEU各国が苦労しているのを目の当たりにして、国連が「これはEUの問題ではなくて、世界全体が取り組むべき問題だ。」と世界に協力を求めた。すると、早速オーストラリア、ニュージーランド、カナダなどが難民の受け入れを表明した。しかし、日本政府は沈黙したままだ。国民の間からもシリア難民受け入れの声は上がってこない。
「痛み分け」という、苦労や苦しみを共に分かち合おうとする日本人の美徳は今でも発揮されている。それがどうして難民問題では発揮されないのだろう。日本人は変質してしまったのだろうか。