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ハクビシンとの共生の試み

 

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今年は2カ所でとうもろこしを栽培しています。1か所(A畑)は5年前にハクビシンによって200本ばかり全滅させられたところです。もう1か所(B畑)も去年ハクビシンに荒らされたところです。引っ掻かれたトウモロコシを見たときに感じたのは、〈これは嫌がらせだ。ハクビシンは怒りを顕わにしているのだ。〉ということでした。それで、ハクビシンについて調べてみると、戦前は台湾から軍人の毛皮用などに、戦後は中国などからペット用に輸入されていることがわかりました。しかし、いずれの場合も、用が無くなったら、日本人は無責任に自然の中に放置して、後は知らんぷりをしている実態が見えてきました。今やハクビシンは全国各地に見られ、森や林のある所だけでなく、住宅地でも出没しては、畑や家庭菜園の作物を荒らしています。その実態を知って、私は自分の畑では、トウモロコシを分かち合うようにしたところ、途中からハクビシンの嫌がらせがぐっと少なくなって、去年は全滅コースではなく、6割は無事でした。その経験を踏まえて、今年は敢えて被害に遭った同じ場所でトウモロコシを作りました。収穫が始まる直前から、3週間にわたってトウモロコシの分かち合いの試みの経過をまとめたので、ご紹介します。
第1週目
トウモロコシの様子を見に行ってみると、どちらの畑でもまだ熟していないのに、ハクビシンが“試食”を始めた跡があったので、昨年同様、そこへ行くたびに場所を浄めて、天地創造の神様に真剣に次のような祈りを捧げました。

1.日本人が戦前から今日までハクビシンを勝手に輸入して、不要になったら、野山に放置している身勝手を深くお詫び申し上げます。
2. 自分のとうもろこしをハクビシンと仲よく分かち合うことができますように。
3. 願わくば、売り物になる大きいものは収穫させていただいて、ハクビシンには小さいものを食べてもらえます様に。
毎回、ハクビシンに向けても同じ内容のことを念じて、思いを届けようとしました。
さて、その週の終わりに収獲が始まりました。結果は次のとおりです。
収獲数(大きいもの)             17本
ハクビシンが食べた本数(大きいもの)  18本

たくさん食べられました。しかし、良く聞くのは、明日収獲しようと思っていたら、その晩に全部やられたという話です。私の畑ではそれは起こりませんでした。

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(ハクビシンがかじったトウモロコシは食べやすいように一か所に集めて、皮を剥いて、立てておいた。)

第2週目
毎回、畑に行くたびに、先に上げた祈りを捧げました。ハクビシンにも同じ内容のことを念じて、思いを伝えようとしました。取り組みは劇的な展開を見せました。
まずは結果をご覧ください。
収獲総本数         288本
ハクビシンが食べた総数  23本
ということで、本当に大量の収穫ができました。嫌がらせで引っ掻かれたトウモロコシは一つもありませんでした。そして、皮を剥いて、立てておいたトウモロコシは全部食べてくれました。

ハクビシンさん、ありがとう。神様、ありがとうございます。こんなに良い結果になろうとは、正直言って想像だにしていませんでした。あまりの被害の少なさに興奮を覚えました。正に祈りが天地創造の神様に通じ、なおかつハクビシンにも通じているのを実感しました。
余談ですが、B畑ではカラス対策を全くやっていませんが、カラスにも荒らされていません。こんなことも初めてです。

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(内心ヒヤヒヤしていたが、ありがたいことに最適な時期にたくさん収穫できました。)

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(えりすぐって、お店に並べました。たくさんあったので、残りは次に日に持って行きました。)

第3週目
まずは結果をお伝えします。
販売用に収獲した総本数(大きいもの)              282本
私がもいでハクビシンに分け与えた総本数             37本(中~小さいずのもの)
ハクビシンが自分でもいで食べた総数 (小~大といろいろ)   24本
合計343本
この週も、毎回畑に行くたびに立ち止まって、手を合わせて、真剣に先に紹介した三つの祈りと収穫を許されている感謝の祈りを捧げました。そして、ハクビシンにも同様の念を送りました。

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(その日も大きいトウモロコシがたくさん収獲できました。)
第2週目の経験から、神様の計らいで私の思いがハクビシンに通じていることを確信しました。それで、分かち合いの思いをさらにはっきりと示すために、この週はハクビシンが必要とするトウモロコシの数を推定して、私の方でハクビシン用に小さ目のトウモロコシをもいで、皮を剥いて、地面に立て掛けるようにしました。
ハクビシンは毎回それをとても上手にきれいに食べてくれました。それでお腹がいっぱいにならない分だけ、“自分でもいで”食べました。

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(実にきれいに全部食べてある。以前は、もっとガサツに食べ散らかしてあった。)

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(自分でもいだものも以前よりきれいに食べてある。)
両方合わせると、ハクビシンが食べたのは64本で、全体の18%。本数は多いですが、商品として見た場合、売り物になるのは、2,3割だけでした。ハクビシンが、いわゆる“いやがらせで荒らした”トウモロコシは一本もありませんでした。このような結果からわかるのは、ハクビシンは私の“願い”をちゃんと知っていて、かなりの程度までそれに応えてくれていると言うことです。私とハクビシンとの間には“共生関係”が成り立ったと言っていいように思います。

まとめ
ハクビシンとの共生の試みを3週間分お伝えしてきました。それは私にとって、「和み農」の実践を意味しました。「和み農」は一言で言うと、「循環と共生の21世紀農業を目指す人の心構え」です。それは次のような八つの柱から成りたっています。
1. 全ての生き物と共生し、
2. 環境と調和して、
3. 排出ガスを最小限に抑え、
4. 作物と心を通わせ、
5. 資材を循環させて、
6. 技能を磨き、
7. “本当に安全な作物”を作る。
そして、
8. 神への祈りから始める
(詳しくは、以下のホームページをご覧ください。https://nagominou.com/?page_id=93
今回は、特に、1.全ての生き物との共生 と 8.神への祈りから始まる を実践しました。昨年も同様の実践をしました。その経験から実感としてお伝えできるのは、次のようなことです。
① ハクビシンを憎む気持ちは全くなくなりました。むしろ、まだ見ぬ恋人のように、とてもいとおしく感じるようになりました。

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(私の畑に夜な夜なやってくるハクビシンもこんなかわいい顔をしているのでしょうか。)
② ハクビシンに私のトウモロコシを与えることは当初抵抗がありましたが、今はハクビシンと心が通じ合えることを喜ぶ気持ちが数段勝っているので、分かち合えることが喜びになりました。
③ 神は人の作り上げた観念ではなくて、「神は実在する!」ことを実感しています。農家ないし百姓はかつてそれを自然に実感できていたのだろうと思います。ミレーの有名な絵「晩鐘」は農家が還るべき原点を描いているように思います。農家にとって祈りは単なる形式以上の実質的な意味があったのではないでしょうか。それは先進国の農家が失った”技能”だったのかもしれません。

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(農夫とその妻の祈りは素朴で、真摯で、深く、神に通じていることを感じさせます。)
④ 自然の背後には神の創造された厳粛なる掟があって、人も動物もそれを守らなければいけないようになっていると感じます。それを真っ先に犯した日本人がまずは天地創造の神様に真剣にお詫びをして、同時にハクビシンにもお詫びをしないといけないと言う気づきが、今回の試みの出発点でした。それは間違っていなかったと思います。
⑤ 天地創造の神様にもハクビシンにも感謝の気持ちでいっぱいです。

全国的に年々獣害はひどくなっています。総被害額は500億を超えたと聞いたことがあります。その原因は一体どこにあるのでしょうか。この報告書が今まで光が当たらなかった箇所に少しでも光を当てることができたなら、幸いです。

小川 誠

 

【追記】 第4週 ハクビシンンの道徳心

第4週以降は収獲数が数十本と少なくなって、10日間で3回しか畑へ行きませんでした。ですから、当然ハクビシンはたくさん自分でトウモロコシをもいで食べたはずです。ところが、実際には4,5本しかもいでなくて、いいトウモロコシはほとんど手を付けてありませんでした。ハクビシンは私がもいで皮を剥いて立て掛けたトウモロコシだけを食べるように努めていることがはっきりと見て取ることができました。〈もっとたくさん食べたかっただろうに・・・。〉そのことに気付いて、私は感動で知らず涙が流れてしまいました。ハクビシンは私の思いやりに応えようと、自分で自分の欲望を自制すべく努力していたようなのです。外来の野生動物であるハクビシンはそんな道徳心を持った動物のようです。すなわち、私たちがハクビシンを勝手に輸入して、不要になったら野山に放置していることに対して、日本にいるハクビシンは怒りを持っていて、畑を荒らすことで日本人を困らせてやろう、仕返しをしてやろうと思っています。しかし、ひとたび一人の人間がそのような日本人の身勝手を天地創造神とハクビシンに真剣にお詫びして、自分の作物を仲よく分かち合えますようにと祈り、その想いを行動に移すと、今度は逆にその人間の気持ちを汲んで良心的に振る舞おうとする動物らしいのです。

自然界の奥深くには、人と動物の関係について、(おそらくすべての生きとし生きるもの同士の関係について)、神の定めた厳粛な掟があると感じます。人がその掟を正しく守ると、動物の方もその掟に従って行動するようになるのではないかと感じています。

 

 

 

農業研修生の募集

研修生の募集を始めます。

①半年コース  今月から12月末まで

②1年半ないし2年コース 今月から来年12月まで、ないし2年間

後者は農水省の「農の雇用事業」で採択されることを前提に正規雇用となります。現場作業を中心に、「循環と共生」の21世紀農業について学びます。対象は20歳から35歳までの若者です。詳しくは当ホームページの「研修生の募集」をご覧ください。

代表 小川 誠

多年草化した稲 7月1日

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(去年田植えをした稲が4月に復活して、威勢よく生長を続けている。稲は野生化し、多年草化した。)

今年集団で多年草化した稲の成長は異例なことばかりです。春まだ早い4月上旬に発芽が始まって、驚くべき勢いでどんどん株別れをして、今多くの株は50本以上に増えていています。紅白の棒を立てた写真の株はすでに60本を超えています。それが全部普通に実れば、大豊作を超えて、超豊作となるでしょう。

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そして、今日7月1日になんともう穂を出しはじめました。

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この品種は通常8月中旬に穂を出す晩生の品種ですが、極早生品種のような振る舞いをしています。この分では、8月中旬に稲刈りとなりそうですが、そんな早い時期の稲刈はこの地域では聞いたことも見たこともありません。

多年草化した稲の観察会は8月8日(日)に予定しています。

多年草化した稲

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不耕起・冬期湛水の水田では一枚の小さな田んぼで9割がた昨年の稲が多年草化していますが、その隣の田んぼでも約50株が多年草化しています。はっきり分かるようにと、今年はその株のそばに竹棒などを立てました。ちょっと異様な光景になってしまいました。
それらは4月中に発芽が始まったので、株分かれは早く進んでいます。今年はこれらの株は個別に収穫して種を保存するつもりです。

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(4月には発芽していて、ぶんげつも進んでいる。)

ハクビシンとの共生 第2週目

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(おととい収穫したとうもろこし)

とうもろこしをハクビシンと分かち合う取り組みは劇的な展開を見せました。まずは結果をご覧ください。

収獲総本数      288本

ハクビシンが食べた総数 23本

ということで、本当に大量の収穫ができました。ハクビシンさん、ありがとう。神様、ありがとうございます。感謝、感激、感動を禁じ得ません。こんな結果になろうとは、正直言って、想像だにしていませんでした。あまりの被害の少なさに興奮を覚えています。

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(えりすぐって、お店に並べたとうもろこし。)

私の提唱する「和み農」では8番目に「神への祈りから始める」と言う項目がありますが、正に祈りが天地創造の神様に通じ、なおかつハクビシンにも通じているのを実感します。

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(ハクビシンがかじったトウモロコシはきれいに皮をむいて立てておきます。すると、次回行ったときは必ずきれいに全部食べてあります。私の思いと思いやりにハクビシンが応えてくれているような感じがします。)

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(立てたとうもろこしは、きれいに食べてあります。)

余談ですが、B畑ではカラス対策を全くやっていませんが、カラスにも荒らされていません。また1週間後に経過を報告させていただきます。

(解説:前回報告)

今年は2カ所でとうもろこしを栽培しています。1か所(A畑)は5年前にハクビシンによって200本ばかり全滅させられたところです。もう1か所(B畑)も去年ハクビシンに4割がた台無しにされたところです。しかし、全滅ではなく、6割は無事でした。その経験から、今年はあえて被害に遭った場所でトウモロコシを作りました。        先週様子を見に行ってみると、どちらの畑でもまだ熟していないのに、ハクビシンが“試食”を始めた跡があったので、昨年同様、そこへ行くたびに場所を浄めて、天地創造の神様に真剣に祈りをささげています。

1.日本人が戦前から今日までハクビシンを勝手に輸入して、不要になったら、野山に放置している身勝手を深くお詫び申し上げます。

2.自分のとうもろこしをハクビシンと仲よく分かち合うことができますように。

3.願わくば、売り物になる大きいものは収穫させていただいて、ハクビシンには小さいものを食べてもらえます様に。

毎回、ハクビシンに向けても同じ内容のことを念じて、思いを届けようとしています

さて、今日から、収獲が始まりました。この1週間の結果は次のとおりです。

収獲数          17本

ハクビシンが食べた本数  18本

たくさん食べられました。しかし、良く聞くのは、明日収獲しようと思っていたら、その晩に全部やられたという話です。私の畑ではそれは起こりませんでした。そして、A畑ではここ二日は、一本も食べられていません。脈はありそうです。

 

今ここに「いのち」あることが希望である

医学、教育、福祉、そして農業は生命にかかわる生業である。医学と教育と福祉は人の「いのち」と「いのち」が直接係わりあうのに対して、農業は直接自然界の「いのち」と関わり、食物を通して間接的に人の「いのち」や健康と関わる。「いのち」と関わる生業に従事する者は、「いのち」に対する自分なりの倫理観や道徳観をしっかりと持っている必要がある。その「いのち」を見つめていくと、自ずから地球を取り巻く宇宙にまで思いが至る。

「いのち」は間違いなく宇宙と繋がっている。

さて、生命について、「いのち」について、人類の進化という観点で少しばかり哲学的な考察を加えてみたい。 それが混迷を極める現代世界において、生きる指針、あるいは人の進むべき方向性を提供してくれると思うからだ。したがって、この章は、上に挙げた生業についている人や、農業に関心がなくても「いのち」に関心のある人にも読んでいただきたいと思う。

 

利己的な欲望が未来を絶望的にする

今、世界に目を向けると、地球温暖化ばかりでなく、様々な環境問題があり、それと複雑に絡まって、世界には水、エネルギー、食糧、貧困、飢餓、テロと戦争や紛争、エイズ、感染症など、実にさまざまな難問が山積している。世界経済もその脆弱さを露呈している。このような状況下、これからの世界は何をきっかけに連鎖反応が起こるかわからない。そして、地球規模で未曾有の緊急事態が発生する可能性は間違いなく高まりつつあり、しかもその予測はますます困難になってきている。

それもこれも、その根本原因は、20世紀の資本主義経済が人間の利己的な欲望を開放しすぎたことにある。それまではどの社会でもそれなりに宗教や共同体、地縁血縁の絆などによって、随所でブレーキがかけられていたために、人間の欲望が暴走することはまれだった。ところが現代は世界中で欲望と欲望が激しくぶつかり合い、頻繁に暴走している。とりわけ、金(かね)に対する飽くなき欲望が人間社会に一定の秩序をもたらし、自然生態系を守ってきた倫理や道徳を片っ端から破壊しつつある。その欲望と利己主義(エゴ)にブレーキをかけられない今の世界は、必ずや近い将来破局を迎えるに違いない。利己的な欲望の対極にあるのは、利他愛と共生本能だが、それが欲望に取って代わらなければ、人類社会は壊滅することだろう。そのとき地球環境はぼろぼろで、他の生物も絶滅に瀕しているのではないか。私はかつてそのような悲観的な見方から将来に対して絶望的になることがしばしばあった。

 

神秘に満ちた生命の世界

しかし、そんなときに「いのちの世界」に目を向けると、いつも生きる勇気と希望が湧いてきた。
生きることの楽しみは人それぞれ千差万別だろうが、私は生命の神秘を見詰めることが楽しみの一つだ。生命は見詰めれば見詰めるほど神秘的で、不思議に満ちている。初孫が誕生したときのことだ。日々その変化と成長の姿に接していると、非常に明確な一つのメッセージが伝わってきた。それは、

生命の誕生と日々の成長は限りない希望であ

という「いのちの世界」からのメッセージだ。孫が誕生した時に覚えた感動と、蒔いた種から芽が出たときに覚える感動は、感動の大きさこそ異なるが、「いのち」の誕生を喜ぶ私の「いのち」の反応という点で、本質的に同じ種類の感動だ。

ところで、生まれたばかりの赤ん坊は植物状態に等しく、しかも自分で自分の身の安全を守ることすら全くできない、無防備で無能な存在だ。できることは泣くこと、おっぱいを吸うこと、眠ること、そして排泄することぐらいで、これはどうみても進化の大失敗作としか思えない。しかし、このあまりに無防備で、無能で、母親に100%その生命の維持を依存した存在を前にすると、私たちはその生命をなんとしても守り、育てていきたいという衝動に駆られてしまう。私たちの命がそのように感じさせるのだ。それは理屈でも、義務感でも、思想でも、道徳意識からでもない。

地球上のあらゆる生命現象界を捉えて「地球生命の世界」とか、もう少し縮めて「いのちの世界」と呼ぼう。今、私が思い、感じるのは次のようなことだ。

個々の「いのち」は「いのちの世界」と繋がっている。ヒトは心を澄まし、耳を澄ませば、心の奥深くに「いのちの世界」の思いを感じ、その声を聞くことができる。

 

赤ちゃんの適応能力欠如の意味

 さて、その植物状態の赤ん坊が日に日に成長していく過程は興味が尽きない。赤ん坊は回路がでたらめに配線されて組み立てられたために手足がとんでもない動きをするロボットのようだ。手がまともにおもちゃをつかめるようになるだけでも5ヶ月も6ヶ月もかかるのだから、不器用極まりない。人間の赤ん坊だけがなぜ他の動物と違って、これほどまでに不完全な状態で生まれるのだろうか。これが進化の頂点に立つヒトという種が自ら選んだ選択であろうか。どう考えてもそうとは思えない。ただ事実においてヒトという生物はその生命の誕生の初めに母親とその家族から無限と言えるほどの手間ひまをかけて面倒を見てもらい、愛情を注いでもらわないと、ヒトとしてまともに成長できない。そのような大きな回り道をするように仕組んだのは誰だろうか。私は「いのちの世界」の仕業だと思う。それは神の御業と言ってもよい。

ヒトの進化に「いのちの世界」は深く関与している。

 

興味尽きない擬態

枯れ葉の形にそっくりな甲羅をもった熱帯の虫、ランの花そっくりの色と形をした熱帯のカマキリ、木の枝そっくりの形をしたナナフシなど、世界中の虫の中には実に見事に周りの物や生き物にそっくりの色や形をした物まね名人がいる。私はどうやって彼らはそのような形態や能力を獲得できたのか、昔から不思議でならなかった。学校で習った、突然変異と適者生存(自然淘汰)の法則だけでそのように進化したという説明ではどうしても納得できなかった。なぜなら、彼らの真似の仕方は絶妙で、その姿は、どれも巧みの世界の熟練工にしかできないような芸術作品だからだ。それがただの偶然の積み重ねで起こったとは到底思えない。例えば、ランそっくりのカマキリは自身を鏡に映さなくてはそっくりかどうかわからない。それをどうやって知り、どうやって生んだ子どもがランそっくりになるようにしたのだろうか。子供っぽい言い方をするならば、私は「いのちの世界」が鏡を提供し、そっくりに整える理髪師の役も化粧係もしたのだと思っている。つまり、擬態はその生き物の”願い”を知り、その願いを実現しようとするただならぬ “努力”を知った「いのちの世界」が手を貸して、DNAに働きかけて実現したのではないだろうか。と同時に、「いのちの世界」がそのような生き方をする生物を創造したいと思っていたから、その声を聞き入れたのではないだろうか。おとぎ話の様で恐縮ではあるが、

地上のあらゆる生物の進化はその生物の「いのち」と「いのちの世界」の相互作用、共同作業によって起こっている。

これが進化の真実ではないかと感じている。

 

ヒトの進化の方向と現代人の方向のずれ

ヒトの話に戻ると、「いのちの世界」との相互作用、共同作業で決められたヒトの進化の方向は、他の生物とは大きく違っている。ヒトは明らかに地上環境への完全な適応を目指してはいない。誕生のときから、私たちは環境不適応の極みを演じている。その意味は一体何だろうか。やはりヒトという種は地上的な様々な制約、ある意味で逆境の中でほどほどに衣食住の満たされた生活環境を作り、その上で愛とか、調和とか、理想とか、創造とかいった、精神的な形質をどのように完成させるかを課題として与えられた生物のようだ。その点で、ヒトは「最適な環境」という概念を必要としない、唯一の生物かもしれない。ヒトにとって、生活環境は精神的な進化のために必要な物質的、社会的な制約や条件なのだ。現代の先進国の侵した大きな過ちは、自然環境を大規模に破壊して、ヒトにばかり好都合で人工的な最適な生活環境を作りあげ、物資的な豊かさを人生の目的とする世界を作ってしまったことだ。それは、ヒト本来の進化の方向から大きく逸脱している。今、起こっている温暖化などの地球の諸問題は、そこに根本原因があると気づかねばならないのではないか。

「いのちの世界」がヒトに託したのは、自然と調和した生活環境で、精神的な形質の向上と飛躍(進化)によって精神世界を豊饒にすることである。

 

「いのちの世界」は無尽蔵の総合情報センター

「いのちの世界」は地上に生命が誕生した38億年前から今日に至るまでの連綿たる生命のリレーが行われている世界だ。そこには一瞬たりとも命が途切れたことはない。その意味は非常に重要で、私たちヒトもその生命のリレーの中で生存の為に必要なもの(能力や形質や智恵)を全て遺伝情報として受け継いできているということだ。発生学がその一端を伺垣間見せてくれる。「いのちの世界」にはそのような無限大ともいえる地球の歴史と生命の情報が保管されているように思う。だから、ヒトという種はかつてあったであろう全ての地上の出来事には十分対応していけるだけの智恵を自らのうちに持っているのではないだろうか。それが呼び出せないなら、「いのちの世界」に意識を向ければ、そのような情報を自らの生命感覚で捉えることが可能なのではないだろうか。

例えば、こういうことだ。私は一歳の時に肺炎にかかって、病院に担ぎ込まれた。幼児期の肺炎は命取りになりかねない。私の担当医師は当時開発されたばかりのクロロマイセチンという抗生物質を投与した。私の熱が下がったのはよかったが、体温が急降下して、35度台まで下がってしまった。その急変する様子を見ていた父は、私の足に触ると、異常に冷たくなっていることに気付いた。父はとっさの判断で湯を沸かし、湯たんぽを作って、私の足に当てた。すると、体温が戻ってきて、顔色が戻ってきた。その話を後で担当医師にしたところ、その医師の顔が一瞬青ざめたそうだ。当時クロロマイセチンはまだ新薬で、その医師は赤ん坊に投与すべき適量を心得ていなかったのだ。もし父があの場で湯たんぽを私の足に当てていなかったら、私は「いのち」を失っていたことだろう。そうやって、父は私の「いのち」を救ってくれた。父は何の医学的な知識も持ち合わせていなかったが、「いのち」が持っている感覚、すなわち”生命感覚”に従って、適切な行動を取ったのだ。私の理解はこうだ。父の「いのち」は「いのちの世界」と繋がっていたから、その総合情報センターから瞬時に最適な情報を取り出すことができたのだ。

 

「いのちの世界」の智恵を引き出そう

環境大破壊の時代にあって、日本を含む先進国の人々が最優先課題として取り組むべきは、「いのちの世界」との繋がりを復活させてその智恵を引き出すことだ。言い換えれば、神との繋がりを取り戻して、神の智恵をいただけるようにならないといけない。そうすれば、必ずや山積する人類の諸問題に解決の糸口が得られることだろう。いや、すでに世界中で多くの人々がその智恵を蘇らせたり、引き出したりして、それを生活の中で生かして日々を静かに送っているか、あるいは活発に、未来に希望を持って活動している。「いのちの世界」と繋がりを取り戻すのはその気になれば、さほど難しいことではない。前述のとおり、心を澄まして、自身の命に、体や心の声に耳を傾け、自身も本来その一部である自然界に耳を傾けることだ。土と触れあうことも有意義だ。霊性を高める業もいいだろう。人の幸せを一心に祈ることもいいだろうし、もちろん、直接神に祈ることもできる。そうして、生命感覚を呼び覚まし、私の「いのち」の全身感覚を蘇らせることが大切だと思う。

「いのちの世界」としっかりした繋がりが復活すると、周りで何が起ころうとあまり動じなくなる。なぜなら、そういう人たちは自分の力量を心得ていて、それぞれの能力と与えられた環境において自己の精神的な形質(=個性)を向上させるというヒトの進化の方向に沿った生活をして、ぶれなくなるからだ。

「いのち」は「いのち」自ずから、進むべき方向と採るべき行動を知っている。

 

今ここに「いのち」あることが希望である

「いのちの世界」は常に進化の過程にある。進化とは、”人生にとっての意味”という視点から言うと、希望である。今私たちが生きていること自体が進化の実現した姿であり、次への一過程でもある。だから、進化の意味は”困難は乗り超えられる”、”よいほうに変わることができる”という意味だ。

それでは、「いのちの世界」とはいったいなんのことだろうか。

「いのちの世界」とは今生きて「いのち」あるものを無条件に全面的に生かそうとする宇宙の働きのことだ。

それを「神の大愛」とも言う。仏教に言う如来や観音の「大慈観」の顕れとも言える。

そのような働き、そのような神や仏の意志の表れが進化という現象であり、それが希望の本質ではないだろうか。

今私たちがこうして生きているということは、そのまま、今生かされているということにほかならない。それは神の愛、あるいは仏の慈悲に包まれているということに他ならない。

私もまた地球環境に関心のある多くの人々と同じように、今の地球環境の急激な悪化や生物種の絶滅に心を痛める人間だ。しかし、「いのちの世界」に思いを馳せると、心が安らぐ。この地球は大丈夫だという思いになる。

できれば、読者にはこの章の太文字の文だけでも声に出して繰り返し読んでみていただきたい。それらは全て私の生命感覚が捉えた事柄だ。だから、それらの言葉は読者の生命感覚に響くようになるかもしれない。そして「いのちの世界」と繋がるきっかけとなるかもしれない。

私は「いのち」という、この喩えようもなく奇すしく、比べようもなく尊い神様からの賜り物に手を合わせて日々拝んでいる。

「いのち」は私にあって私を遥かに超えた存在である。

私は、今ここに「いのち」あることを神に感謝して、これからの日々を大切に生きていきたい。

 


多年草化した稲の観察会

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(多年草化した稲の生育は非常に早く、姿も逞しい。)

大家族の不耕起・冬期湛水の田んぼでは、去年植えた稲が冬の間に枯れずに生き延びて、春からまた再生して、今威勢よく生長をしています。既に大株になっているところも多く見受けられます。このような現象は前代未聞です。イネは野生化して、多年草化したように思われます。3年ほど前からそのような現象がポツリポツリと現れてはいましたが、今年は特に1畝弱の田んぼでは9割以上が再生して、そこは田植が不要になってしまいました。

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(すでにかなり株分かれが進んでいて、茎も太い。)

どうしてこのような稲の多年草化現象が起こったのでしょうか? 不耕起移植栽培の強くて逞しい苗作り、不耕起・冬期湛水による生物多様性のある田んぼ環境、そして大家族が実践する「和み農」の相乗効果で生じているものと思われます。

今回の観察会では、おそらく稲は出穂しているので、そのときの稲株の状況を詳しく観察して、今年田植えした稲とどのように違うのか、また実際の実りはどうなるのか、比較・分析・予測を試みたいと思います。そして、どのようにして野生化・多年草化が起こったのか、不耕起移植栽培の育苗技術と「和み農」の解説をした上で、そのメカニズムの解明を試みたいと思います。さらには、多年草化した稲による全く新しい画期的な不耕起・冬期湛水稲作、すなわち、一度田植えをすれば、何年も田植えが不要となる、夢のような米作りの可能性についても、大胆な予測を試みたいと思います。

関心おありの方はぜひご参加されますよう、ご案内申し上げます。

1.日時   8月8日(土)午前10時~12時

2.場所   神奈川県相模原市田名塩田の不耕起・冬期湛水田

3.定員   40名

4.参加費  一人2,000円(当日徴収します。資料代を含む)

5.集合場所 カインズホーム田名塩田店前に午前9時半集合

6.道案内  なるべく公共交通機関をご利用ください。 JR相模線原当麻駅下車、駅前のバス停で9時7分発、田名ターミナル行きバスで 約10分、塩田桜橋で下車。そこからバスの進行方向にカインズホームが見えます。そこから、現場まで徒歩約5分  バスは1時間に一本しかないので、乗り遅れないようにご注意ください。車でお越しの方は事前にご連絡ください。(駐車できないこともあります。)

7.申込み: 参加希望者は、住所、名前、電話番号を明記のうえ、Eメールかファクスで事前予約が必要です。当日スポットでの受け付けはしません。

8.その他  雨天でも決行します。あぜ道などがぬかるんでいる場合   があります。汚れても良い恰好でお越しください。盛夏ですので、暑さ対策と十分に水分の補給ができるようにご準備ください。

ご不明な点があれば、以下にメールでお問い合わせください。

主催;合資会社 大家族  代表 小川 誠

〒252-0232 神奈川県相模原市中央区矢部2-21-17

電話番号:090-93418229(小川の携帯)

ファックス:042-757-7163

メール:daichitotomoni@gmail.com

田植は晴れの舞台

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自然耕塾は3月のまだ寒さが残るころから始まります。ですから、塾生にとって田植えは 2か月間、3回の準備作業と学習の成果を発表する“晴の舞台”です。今年の苗は発芽率も良く、茎も太くてとてもいい苗ができました。天候にも恵まれて、それを3枚の田んぼ、計5.7畝に植え付けました。不耕起・冬期湛水の田んぼは、驚くほど土が柔らかくなっていて、場所によっては足を一回引き抜くにも大変です。面積も決して少なくありません。が、大勢でやるとやれてしまうものです!

150531_1131~01                                 その後、簡単な講義をして、午後4時からお祝いのパーティーをやりました。みんなで食べ物を持ち寄って、丹沢連邦に日の沈むまで楽しく語り合いました。

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奇跡の稲 6月2日

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不耕起・冬期湛水の田んぼで去年植えた稲が冬の間に全然枯れないで、4月に復活しました。9割以上が復活しています。そして、今ぐんぐん成長をしています。ですから、その田んぼは今年田植えが不要となりました。                                       イネは完全に野生化し、多年草化したのです。               その稲の豪快で、勇壮な姿を覧ください。                  稲を寒さの中で鍛え、不耕起・冬期湛水によって生物多様性のある田んぼ環境で育て、「和み農」を実践したところ、このような信じられない現象が起こりました。

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なお、ここは「耕さない田んぼの米作り」を学ぶ自然耕塾の会場になっています。

小川

 

 

不耕起米作りが大学の必修科目に

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東京家政大学の環境教育科とのお付き合いは今年で5年目になります。フィールドワークという野外授業の選択肢の一つとして不耕起栽培の米作りに取り組んでいただいて、年に3回、田植と、草取りと、稲刈りに関東全県に散らばる学生さん60名前後が毎回参加されていました。取れたお米は大学に送って食べてもらって、授業の締めくくりとしてもらっています。それが、今年から必修科目になって、90名がこぞってやってきてくれました。                              学生さんたちは事前にETV特集で放映された岩澤先生の番組のビデオを見て、不耕起+冬期湛水の米作りについて一通り理解しています。その感想文を読むと、よく理解していて、自分の考えがしっかりとまとめられているものが多いです。ですから、しっかり動機づけができてから、やってきます。                                今年は大家族の不耕起+冬期湛水田んぼで、去年の稲が野生化し、多年草化して、春に生長を再開したため、田植えが不要になった田んぼが出現しているというホットニュースをお伝えしました。「その世界にはまだまだ『神秘の扉』がありそうです。」と。学生さんたちはとても興味深々の眼差しで話を聞いていました。

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(去年の古株から復活した稲は、非常に逞しい姿で成長している。)

その後、田んぼで固い土に穴を空ける棒を一人ずつに手渡して、草がまだ生えている田んぼで田植えをしてもらいました。5畝弱の田んぼに90名も入ると、さすがに壮観というか、所狭しというか、普通の5倍も時間のかかる不耕起の田植ですが、1時間もかからないで終わってしまいました。

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次回は、3週間後に草取りに来てくれる予定です。
学生のみなさん、お疲れ様でした。