数年前のことですが、町田市にある歴史環境保全地域の入口に田んぼを借りたことがあります。そこの心優しい地主さんのご希望にお応えして、2年間かけて休耕田を蓮池に作り替えました。そしたら、夏場になるときれいな蓮の花がたくさん咲いて、道行く人の心和む憩いの場が出来上がりました。休耕田はこういう活かし方もあるんだなと思いました。 今は、どうなっているかなあ。
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サヤミドロとの共生
上の写真はサヤミドロが何百年ぶりか知りませんが、不耕起栽培にすることで発生した田んぼです。ここは冬の間も水を張っている(冬期湛水と言います。)ので、サヤミドロはもう2月ごろから発生し、田植えの頃はこのように一面を覆います。普通なら、農家は除草剤を撒いて藻を消してから田植えをします。大家族では、水を切って、その藻をかき分けながら、田植えをします。そして、そのあとで水を入れると、写真のような光景になります。普通の農家ならぞっとする光景ですが、大家族では歓迎すべき光景です。サヤミドロは厚く繁茂していて、光を通さないので、そこでは本当に驚くほど草が生えてきません。稲と藻との共生と言えるかもしれません。
参考までに、下の写真は藻が植えたばかりの稲の苗に覆いかぶさった様子です。そのままでは苗は枯れてしまいます。
大家族では水位をこまめに調整することでそうなるのを防いでいます。
幻の藻サヤミドロが冬の小川に
田んぼの作業を終えて帰りがけ、いつもとは違う小川の緑に気づいて車を止めて近づいてみると、それは幻の藻サヤミドロでした。
その藻は普通の田んぼでは見られません。耕さない田んぼにしか発生しない藻です。それがどうして小川に発生したのか?
じつは、原因は私にあります。5年前、耕作放棄地を田んぼに再生して、2年目から耕さないでお米作りを始めたところ、サヤミドロが発生してきました。その時はとても感動しました。いったい何百年間そこで眠っていたのか。私は毎年その田んぼで苗代を作って苗を育てています。その苗を運んでほかの地域にある多くの田んぼでも米を作っています。すると、その苗にサヤミドロの胞子が付着したのでしょう、そこの田んぼ群でもサヤミドロが発生するようになりました。その量が年々増えています。でも、もちろん、私の田んぼでしか見られません。ほかの田んぼは除草剤を撒くからです。きっとそのサヤミドロの胞子が排水路から小川に流れ込んでいたのでしょう。小川ももちろん耕していませんから、サヤミドロは自分の住処と思ったのでしょう。5年目にして発生したのです。見ていて大変美しい緑色をしています。
さて、サヤミドロは普通の図鑑には載っていません。農家も全然知りません。でも、素晴らしい働きがあります。まず、もちろん魚の隠れ家になります。餌にもなります。そして、大量の酸素を水に供給するので、生き物が増えていきます。つまり、田んぼの生物多様性再生の起爆剤になる重要な藻なのです。そして、最後は、田んぼの肥料になります。 5月になると用水路に変身するその小川。農薬が流入するようになるので、サヤミドロはたぶん死滅するでしょう。でも、きっと冬場になると、きれいな湧水だけになり、幸運なことに湧水はほどほどに温かいので、又再生するのではないかと思います。何百年か眠っていた藻が自然環境の中に生きて行ける場を見つけたのです。うれしいですね。
小川
冬の間もコツコツと
立春を過ぎると、土が柔らかくなり始めます。それで、新しく借りた畑に肥料をすき込む作業をしました。
白く見えるのは、おからです。そこに米ぬかも播きました。そして、天然の貝化石の粉末も。ミネラルを供給するためです。そうしてから、トラクターですき込むと、肥料は土にきれいに混ざっていって、草も同時にすき込まれて、きれいな黒土になります。
運転しているのは、3年目になる女子スタッフ。若い女性がトラクターに乗るのはまだ珍しいですね。もう堂に入ったものです。
そうして、1か月半ぐらい待つと、肥料は発酵して土となり、種まきが可能となります。今年はおからをもらうたびにもう1月から少しずつ田んぼでもすき込み作業をやっています。この冬の間の仕込み作業をやるか、寒いからやらないでこたつで丸くなるか、その差は夏に出てきます。
コツコツと 冬の間に 精を出せ
夏の暑さも 実りで報わる
「和み農」勉強会
「和み農」勉強会を開催しました。
主に6年前から開いている野菜の研修会と田んぼの研修会の修了生に呼びかけたところ、16名の参加があって、広間はいっぱいになりました。修了生の一人、吉田薫さんは東洋医学の見地から化学農法、有機農法、自然農法の野菜の成分分析をして、その違いを見事に解き明かしていて、目から鱗でした。吉田さんはいわば民間研究者。とても頭も体もフットワークがよくて、行動派。素晴らしい方です。今後の活躍を大いに期待します。
さて、「和み農」は私の造語です。
21世紀という環境の世紀、その時代に適応する農法がありません。農業は優れて自然環境を守りもするが、壊しもする両刃の剣です。現状は環境破壊産業、環境大汚染産業と化しています。そこを何とかできないか、現代農業の根本的な疑問や課題に対する答えを一つ一つ出して行って、まとめたものが「「和み農」です。まだまだ完成からは程遠いですが、骨格は出来上がりました。
その最初の説明会を昨日開くことができて、とてもうれしく思いました。これから、この紙面でも少しずつ「和み農」の考え方をご紹介していきたいと思います。
小川 誠
ヒキガエル君との共生の試み
みなさんは畑にヒキガエルがいることを知っていますか?今や、絶滅危惧種リストで希少種となったヒキガエル。私の不耕起の畑では推定100匹ぐらいは生息していると思います。そんな畑は専用農家の畑にはまずありません。みな、とうの昔に農薬とトラクターで滅ぼされてしまっています。
私の畑では作付をしない場所はできるだけ草を刈らないようにしておきます。そこがヒキガエル君の住処となるからです。その草を刈るときは、2度刈りします。一回目に表面10cmぐらいのところで刈って土が見えるようになったら、ヒキガエル君に声をかけます。
「いいかい。これから草刈り機で地面すれすれに草を刈るから、今のうちに逃げてちょうだいよ!」
そう言って、いるかいないか、歩きながら見回って、いないとわかると、刈り始めます。面白いことに、たいてい刈り終わったすぐ後で、もそもそとヒキガエル君が頭をもたげてきます。どうも草刈り間、頭を地べたに押し付けているらしいのです。そして、移動始めるのですが、片足ずつ交互にのばして、その動作…の無様でのろいことと言ったら、ありません。〈君ねえ、カエルなら、もっとカエルらしく、ぴょんぴょん飛べよ。そもそも君はメタボすぎるよ。〉と言いたくなりますが、そこはぐっと我慢。なにせ、猛烈な速度で回転する草刈り機の刃に当たったら、イチコロです。
「よかったなあ。無事で!」
中東地域の刀狩り
イスラム国の論議がかまびすしい
中東地域に真の平和をもたらした
日本政府は今後も進んで難民支援
「和を以って尊しとなす」日本な
農業は平和をもたらす。農村の牧
中近東の人々に麦の種と鋤(=
草には負けないぞ
(本葉を大きく広げた大豆は愛らしい)
津久井在来大豆の話を続けます。
種をまいて、無事芽が出て葉を広げることができたら、一安心というより大安心です。このあとは、大豆君たちの真価が発揮されるからです。彼らは次から次からどんどん葉を出しては広げていって、見る見る間に大きくなっていきます。その速さは雑草に匹敵するほどで、私は大豆ほど早く生長する作物を知りません。だから、足元は光が差さなくなって暗くなり、草が生えにくくなります。そうやって、大豆君は草に負けないくらい早く逞しく生長していきます。おかげで、草取りは一回さっとやるだけで済んでしまいます。もちろん、そのような栽培方法を見つけ出すまでに試行錯誤がありましたが。
ですから、こんなにこの土地に適合した作物は他にはないと思います。農家はそういう大豆をどうして作らないのか。作らなくなってしまったのか。大粒でたくさん収穫できて、味も濃い津久井在来大豆なのに。私には不思議でなりません。
小川
鳩さん、見つけても食べないで!
津久井在来大豆の種まきで私が一番困っているのは、種を播くときです。というのも、大家族では大豆を自家採取して、それを播いているのですが、その種を鳩が食べてしまうからです。
これがまたふるっていて、播かれた種はよせばいいのに、わざわざ丸ごと地上に顔を出して、「鳩さん、どうぞお食べください」とやるのです。なんでそんなことをやるのかというと、その種が真っ二つに割れて、最初の葉(子葉)になるのです。
(右に顔を出した大豆。左は種が二つに割れ始めたところ。)
だから、たまったものではありません。鳩君たちはここぞとばかり仲間を連れてきて、片っ端から食べまくります。また、種が土の中にあっても、鳩君たちは上手に見つけ出して食べてしまいます。そうして一昨年は何枚もの畑で物の見事に種を食べ尽くされてしまいました。
そう書くと、では、他の農家もみな同じ被害に遭うのではないかと思われるでしょう。ところが、そうはなりません。というのも、普通の大豆は表面に忌避剤と呼ばれる化学物質が塗られているので、鳩君たちはまずくて食べる気にならないからです。しかし、私のところではそれも農薬には違いないので、とても買って使う気にはなれないのです。でも、そうすると、鳩君たちの猛攻撃に遭ってしまう。これは実に深刻な問題です。種が成長できなければ、その年の大豆の生産は全滅するわけですから、まさに死活問題です。
それで、その年はどうしたかというと、「叶わぬ時の神頼み」とよく言いますが、他にできることが何もないので、本気で神様に祈りを捧げて、種を播き直しました。すると、どうでしょう。どの畑でも種は食べられずに葉を広げて、その畑で生きていくことが許されたのです。
無事に子葉(下側)と初生葉(上側)を広げ始めたところ。初生葉は小鳥のくちばしのように見える。「ピーチクーパーチク、よかったよう、よかった、よかった、よかったよう」とさえずっているかのようだ。
ただ、一枚の畑だけは、ほとんどが食べられてしまいました。そこは、スタッフに播いてもらい、終わるころ私が行って、祈りを捧げたところでした。何が違ったのでしょうか。それは、祈りの深さだと思います。自分で播いたところの方が種に愛着を感じますし、その分真剣みが強かったのでしょう。
このような体験から、真摯で真剣な祈りは天に通じることがあるということを実感しました。その時私が感じたことをもう少し正確に言いましょう。 生き物との共生を目指して、農薬や化学肥料を使わない農業を神様は喜んでいらっしゃる。だから、農薬のかかっていない自然状態の大豆の種を播いて、必死で神様に祈ると、神様はその祈りを聞き入れてくださって、鳩君たちが食べないように諭してくださる。すると、鳩君たちは素直に神様の言いつけに従う。そういうことが本当にあるのです。
見事に生い茂った大豆
神様に祈ってから大豆の種を播くということは、去年も実践しました。お陰様で、大豆は無事生長することができました。「和み農」では、「神への祈りから始める」ことを基本の一つに挙げていますが、実はそのような実体験からそれが有効であることがわかって加えたものです。
小川
おいしいと言われる喜び
農業を営む者にとして、お客さんから「小川さんの作った野菜、おいしいですね。」と言われるのは、本当にうれしいことで、それに勝る喜びはありません。自分が育てた野菜やお米を食べた人が「おいしいなあ。」と感じて、喜んだことを知らせてくれると、自分も喜びを感じます。すると、今までの苦労が報われます。お店に荷造りした野菜を持って行って並べていると、ときどきそう言ってくれるお客さんに出くわします。そういう瞬間は神様からご褒美をいただいたように感じますね。 おいしいと言われて、喜びを感じるのはおおよそ食べ物を作っている人なら、お母さんでも、コックさんでも、お総菜屋さんでも、果樹栽培農家でもみなきっと同じでしょう。おいしく作ったものを食べて喜んでもらいたいというよき思いと、おいしいものを食べた喜びを作った人に伝えたいというよき思いが共鳴するときは、人の心の中で響きあう、なんとも美しい音色を発しているのでしょうね。そんな風に感じます。
ただ、ちょっとまじめな話をすると、おいしさには、食べて体に良いおいしさと、体に悪いおいしさがあることは言っておきたいと思います。大家族は、前者に徹底的にこだわっています。つまり、命を養う、生命力を高める、それによって、明日の活力を育む。そういう、生きるための役、健康増進につながるおいしさを追及しています。残念ながら、人の味覚は必ずしも命を養わない物でもおいしく感じてしまう欠点がありますね。今は特に人工的なおいしさ、つまり化学物質によって作られたおいしい食品や、化学処理されて作られた不自然な食品が非常に増えています。しかし、それらはむしろ体に害をなすおいしさです。そういう物を取り込まないためには、現代社会では健康な農作物や食品に関するある程度の関心と知識がないとだめですね。現代は、知的に食べる時代でもあります。
小川