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鳩さん、見つけても食べないで!

 

津久井在来大豆の種まきで私が一番困っているのは、種を播くときです。というのも、大家族では大豆を自家採取して、それを播いているのですが、その種を鳩が食べてしまうからです。

これがまたふるっていて、播かれた種はよせばいいのに、わざわざ丸ごと地上に顔を出して、「鳩さん、どうぞお食べください」とやるのです。なんでそんなことをやるのかというと、その種が真っ二つに割れて、最初の葉(子葉)になるのです。P1060807

(右に顔を出した大豆。左は種が二つに割れ始めたところ。)

だから、たまったものではありません。鳩君たちはここぞとばかり仲間を連れてきて、片っ端から食べまくります。また、種が土の中にあっても、鳩君たちは上手に見つけ出して食べてしまいます。そうして一昨年は何枚もの畑で物の見事に種を食べ尽くされてしまいました。

そう書くと、では、他の農家もみな同じ被害に遭うのではないかと思われるでしょう。ところが、そうはなりません。というのも、普通の大豆は表面に忌避剤と呼ばれる化学物質が塗られているので、鳩君たちはまずくて食べる気にならないからです。しかし、私のところではそれも農薬には違いないので、とても買って使う気にはなれないのです。でも、そうすると、鳩君たちの猛攻撃に遭ってしまう。これは実に深刻な問題です。種が成長できなければ、その年の大豆の生産は全滅するわけですから、まさに死活問題です。

それで、その年はどうしたかというと、「叶わぬ時の神頼み」とよく言いますが、他にできることが何もないので、本気で神様に祈りを捧げて、種を播き直しました。すると、どうでしょう。どの畑でも種は食べられずに葉を広げて、その畑で生きていくことが許されたのです。

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無事に子葉(下側)と初生葉(上側)を広げ始めたところ。初生葉は小鳥のくちばしのように見える。「ピーチクーパーチク、よかったよう、よかった、よかった、よかったよう」とさえずっているかのようだ。

ただ、一枚の畑だけは、ほとんどが食べられてしまいました。そこは、スタッフに播いてもらい、終わるころ私が行って、祈りを捧げたところでした。何が違ったのでしょうか。それは、祈りの深さだと思います。自分で播いたところの方が種に愛着を感じますし、その分真剣みが強かったのでしょう。

このような体験から、真摯で真剣な祈りは天に通じることがあるということを実感しました。その時私が感じたことをもう少し正確に言いましょう。                                       生き物との共生を目指して、農薬や化学肥料を使わない農業を神様は喜んでいらっしゃる。だから、農薬のかかっていない自然状態の大豆の種を播いて、必死で神様に祈ると、神様はその祈りを聞き入れてくださって、鳩君たちが食べないように諭してくださる。すると、鳩君たちは素直に神様の言いつけに従う。そういうことが本当にあるのです。

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見事に生い茂った大豆

神様に祈ってから大豆の種を播くということは、去年も実践しました。お陰様で、大豆は無事生長することができました。「和み農」では、「神への祈りから始める」ことを基本の一つに挙げていますが、実はそのような実体験からそれが有効であることがわかって加えたものです。

小川

おいしいと言われる喜び

農業を営む者にとして、お客さんから「小川さんの作った野菜、おいしいですね。」と言われるのは、本当にうれしいことで、それに勝る喜びはありません。自分が育てた野菜やお米を食べた人が「おいしいなあ。」と感じて、喜んだことを知らせてくれると、自分も喜びを感じます。すると、今までの苦労が報われます。お店に荷造りした野菜を持って行って並べていると、ときどきそう言ってくれるお客さんに出くわします。そういう瞬間は神様からご褒美をいただいたように感じますね。         おいしいと言われて、喜びを感じるのはおおよそ食べ物を作っている人なら、お母さんでも、コックさんでも、お総菜屋さんでも、果樹栽培農家でもみなきっと同じでしょう。おいしく作ったものを食べて喜んでもらいたいというよき思いと、おいしいものを食べた喜びを作った人に伝えたいというよき思いが共鳴するときは、人の心の中で響きあう、なんとも美しい音色を発しているのでしょうね。そんな風に感じます。

ただ、ちょっとまじめな話をすると、おいしさには、食べて体に良いおいしさと、体に悪いおいしさがあることは言っておきたいと思います。大家族は、前者に徹底的にこだわっています。つまり、命を養う、生命力を高める、それによって、明日の活力を育む。そういう、生きるための役、健康増進につながるおいしさを追及しています。残念ながら、人の味覚は必ずしも命を養わない物でもおいしく感じてしまう欠点がありますね。今は特に人工的なおいしさ、つまり化学物質によって作られたおいしい食品や、化学処理されて作られた不自然な食品が非常に増えています。しかし、それらはむしろ体に害をなすおいしさです。そういう物を取り込まないためには、現代社会では健康な農作物や食品に関するある程度の関心と知識がないとだめですね。現代は、知的に食べる時代でもあります。

小川

虫食いモロコシでも売れる

最近ちょっとはまっているゲームをご紹介します。それは小売ゲームです。そのゲームはとても簡単です。売りたいと思う野菜を荷造りしてお店に並べて、どれだけ売れたかを競うゲームです。相手はお客さんです。

というと、なんだそれって、ただ野菜を売っているってことじゃん。そのどこがゲームなの?といぶかしがることでしょう。ごもっとも、ごもっとも。でも、それはれっきとしたゲームなんです。お客さんと楽しむゲームです。

例えば、長さが15cmしかない細身の大根。これは売れると思いますか?スーパーではそんなの、まず売ってないですよね。でも、売れるか売れないか、試してみるのは、一種のゲームでしょ?!あるいは、重さが1kg以上もあるサツマイモ。これは売れると思いますか?それを試してみるのも結構わくわくするゲームですよ!置かせてもらっているお店から拒絶されなければの話ですが・・、あるいは、お客さんから「客をばかにするな!」と怒鳴られなければ。

そうやって、このところ、いろんな「売れそうもない野菜」が本当に売れないのかどうか、ゲーム感覚で試しています。すると、どうでしょう。まさかと思うようなものでも結構売れるんです!

上で挙げた巨大サツマイモ。これは10個あるお店に並べてもらったら、ただ置いておいただけなのに、2日で完売してしまいました。その際、売れそうもない形はどんな形かって、そんなことも予想したんですが、それも当たりましたね。サッカーボールのような芋らしからぬお芋さんが一番最後まで残りました。 それでも、もらってくれる人はいたんです!

どういう売り方をしたかですって?みなさんに当ててほしいですね。当たった人には、先着一名様に巨大さつま芋を3個贈呈しましょう。これまた面白いゲームになりますよ。どうぞ、お問合せフォームから投稿してください。その際、住所をお忘れなく。

そんなこんなで、今までの農家の常識で、あるいは消費者でもある私の常識で、今までスーパーや八百屋さんでは見たこともないような野菜が実は結構売れるんだってわかって、感動しています。それで売れた野菜を列記しましょう。                                       ・虫食いトウモロコシ (お店の人にはけっこう不評でしたが・・・                                  ・間引き菜(大根、かぶ・・・ 普通、農家は捨てている。                            ・いろんな大きさの大根、キャベツ、白菜、ブロッコリー           ・いろんな形、いろんな大きさのサツマイモ、虫食いサツマイモ

言うまでもなく、虫食いトウモロコシが最もスリリングでしたね!絶対売れないだろうと思っていましたから。だって、がぶっとやたら、虫が出てきたなんてことになったら、2度とうちのトウモロコシは普通なら買ってくれないですよね。それでも、試しちゃいました!正直に「虫食いあり!」とはっきりわかるように書いたラベルを張って、並べたのです。そうしたら、結構、覚悟を決めて(?)買ってくれた人がいたのには、我ながら驚き、かつ感動しました。

そういうゲームをお客さんとの間であれこれやってわかったことは、有機栽培の野菜を買うお客さんの多くは、一番大切にしているのは、見てくれじゃないんだということです。本当に安全で、本当においしかったら、お客さんは見てくれが悪くても、虫食いでも、中に虫が潜んでいるとわかっていても、農家に付き合ってくれるんですね。これは農家にとっては、大発見ですよ。

私はこのようなゲームをして、消費者のみなさんを見直しました。そして、農家は既成概念や固定観念に囚われすぎているのではないかと思うようになりました。よく曲がったキュウリのどこが悪いという話は出ますが、消費者の懐の大きさはそんなものではないと思います。もっともっと大きいんです。

ちなみに、大家族では「できた野菜はみんなで食べてあげる」というモットーがあります。それで、今言ったようなゲームをやっているというわけです。それは、育ってくれた野菜さんに対する誠意だと思っています。きっと大家族の不器量野菜を買ってくださるお客さんにも同じような優しい思いがあるのでしょうね。うれしいことです。

小川

けなげなキャベツ君たち

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農作業をしていると、感動する場面に時々遭遇します。         年の瀬、大晦日の日に今年一番感動した場面の写真をご紹介したいと思います。 これです。                                     この見苦しく虫に食われたキャベツのいったいどこに感動したのかと、思われることでしょう。

これはまさに私の失敗作です。肥料の投入の仕方を間違えたために猛烈に虫の攻撃を受けてしまって、キャベツは見るも無残に葉っぱを食べつくされてしまい、骨皮筋衛門になってしまいました。 その数100個以上。                                        「 悪いことをしちゃったなあ。」                         と思うと同時に、                                  「 これじゃあ、なにも売り物にならないや」                  と農家の計算がすぐに働きました。 大損失です。

・・・・・と書きましたが、実は、上の写真はそう思ってから一か月くらいたった時の写真なのです。骨皮筋衛門の状態だったにもかかわらず、それはそれは必至で光合成をやってキャベツ君たちはそれでも見事に巻いてくれたのです。そういうことはほとんど期待していなかったことです。キャベツ君たちの頑張りは並大抵なものではなかったと思います。 敗者からの大復活! 8割ぐらいは復活しました。ですから、この写真はキャベツ君たちの栄光の勝利の写真なのです!                                       そう言われると、虫食いの筋と皮の部分がなんだか見事なレースの刺繍のように見えてきませんか? そう、あのレンブラントの絵の中にある貴婦人の襟の刺繍のように。

いやあ、そこまで私についてくるのはちょっと無理かもしれませんね。でも、キャベツ君に対して罪の意識のある私には、それくらい褒めておだててやりたい親心があるのです。
ちなみに、これらのキャベツはお店でちゃんと貰い手がみつかりました。 めでたしめでたし。
小川

津久井在来大豆

合資会社 大家族の津久井在来大豆にちなんだお話ししたいと思います。

1.大豆生産の背景

なぜ津久井在来大豆の生産を始めたかというと、大家族には市民が出資して経営を支え、(お金はないが生産技術はある)農家が本当に安全な食料を生産すると同時に、市民と力を合わせて将来起こりうる食料危機に備えるという、一番基本的な約束事があります。           大家族では、食料危機ないし穀物価格の暴騰はまず大豆から始まると考えています。なぜなら、大豆の国内自給率はわずか5%しかなく、風前の灯です。加えて、地球温暖化に伴う異常気象の激化や爆食中国の急激な需要増加などによって、大豆の生産も輸入環境も、急速に不確実化、不安定化しつつあるからです。

 

もう一つの理由は、和食の基本は米と味噌であると考えていて、有機栽培で生命力のある玄米と大豆、そして大豆を加工した天然醸造の味噌さえあれば、日本人は、ほかに食料が途絶えても、長期にわたって健康が維持できると考えているからです。これはマクロビオティックに近い考え方だと思います。

2.津久井在来大豆の特性

うれしいことに、相模原には津久井在来大豆という、味の濃さで定評のある、地元のお豆があります。そういう地元の在来種は栽培が容易で、しかも栄養価に富んでいます。また、味が濃いので、豆単体でも売りやすく、大豆製品にしても、おいしい物ができます。今日では、津久井在来大豆は神奈川県が推奨する神奈川ブランドに認定されています。今、全県で津久井在来大豆の振興が進められていて、県民の認知度が年々高くなっています。

3.大家族の生産方法

大家族では「和み農」で大豆の生産技術を一通り確立しています。普通にみられる化学農法の生産方法とはかなり違うかもしれません。後日またお話ししたいと思います。

続く

 

 

合同収穫祭

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いのちいきいき栽培研修会と自然耕塾はいずれも一年のコースです。ですから、春まだ寒い時期に始まって、四季の巡りを感じながら、実りの秋の終わりまで続きます。畑と田んぼと、様子は異なりますが、収穫の秋で一巡することが体でわかります。その最後の締めくくりが収穫祭です。この日を迎える喜びは、一年の巡りを感じた人には格別です。大家族では、畑の研修生と田んぼの研修生がが合同で収穫を祝います。

収穫祭はいろいろな形があるでしょうが、大家族というより、私のところではもうかれこれ20年ぐらい、収穫祭はみんなで餅をつきます。

あ、ただし、その前に近くに神社にみんなでお参りして、お米や野菜をお供えして、一年の実りを与えてくださったことを氏神様に感謝します。

餅を搗くそばから、磯辺巻、黄な粉餅、あんころ餅、納豆餅、大根おろし餅などをみんなで作って、かたっぱしから食べるという、食い気丸出しのお祝いをしています。有機栽培のもち米を使うことでまずおいしくなります。薪で蒸すので、さらにおいしくなります。杵で搗くので、またさらにおいしくなります。餅つきで適当に体を動かしてから食べるので俄然食欲も増しています。搗きたてを食べるので、またまた一段おいしさが増します。というふうに、一番おいしく食べる仕掛けがしてあります。

今年もみなさんその味を十分堪能されていました。

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お酒も適度に入って、お腹が膨れたところで、修了証書の授与式を行い、自然耕塾生は自分たちが丹精込めて育てた不耕起・冬季湛水のお米を併せて受け取ります。一年の苦労が脳裏に蘇っているようでした。

 

その日は、ぽかぽかの小春日和で、とても穏やかな日差しの中で畑と田んぼの研修生もすぐに打ち解けて、とても和やかな雰囲気の収穫祭となりました。

小川

稗に心を寄せて(10)

稲と稗の関係を論じている間にずいぶん話が広がってしまったが、読者は稗と稲の昔の姿や、これからの姿に少しは思いを馳せることができたのではないだろうか。

動物の家畜化は比較的わかりやすい。犬でもネコでもラクダでもどこかの時点で人に飼いならされて、人に寄り添う生活をするようになった生き物だ。その過程で動物なりに性格や習性を変化させてきたのだろう。胡坐をかいているとすぐそこに寄って来てぽこっと収まってしまうネコの愛らしい習性は野生時代にはなかったものだろう。前足を揃えてまっすぐに伸ばして座る「基本姿勢」は完璧だ。猫の美学を表現している。これも一人の技ではないだろう。私はタイで野生のトラが僧院で僧侶に飼いならされて、かなりネコ化しているのを見てきた。また、トラに触ることのできる動物園にも行って、恐る恐る実際にこの手で触ってきたこともある。トラはまだまだネコほど好かれ方が巧みではない。(笑い)          151

(腰のあたりをそっと撫でたら、まさか、こっちをむいてしまった!慌てて作り笑いをした。その瞬間、「ガブッ」と噛みつかれる恐怖がよぎった。目と目があったが、どんな目をしていたか覚えていない。)

やはり人間の側の調教や家畜化技術だけではああはならないと思った。ま、特殊なケースであって、トラという種の選択ではないだろうが、・・・・・・・・いや、・・・・・もしかしたら、・・・乱獲によって絶滅危惧種になったベンガルトラもあるくらいだから、絶滅を免れる手段として取った行動である可能性も全くゼロとは言い切れないかもしれない。「いのちの世界」はとにかく人知の及ばない智慧、仏教国のタイなら、トラもそれこそ仏の智慧を授かっているかもしれない。

だとしたら、人間との付き合いが増えるにしたがって、いつの日かトラはお寺にましますお釈迦様の像に、御坊さんのお参りの仕方をまねて、前足を合わせてこんな願掛けをするかもしれない。           「お釈迦様、人間に好かれるにはどうも俺は大きすぎるらしい。俺はもうどうにもならないが、生まれてくる子供はもう少し小さくしていただけないでしょうか。」                                  「お釈迦様、どうも俺の顔の模様は恐ろしく見えるらしい。俺はもうどうにもならないが、生まれてくるわが子にはもう少し人間に好かれるような模様にしていただけないでしょうか。」                  「お釈迦様、俺の牙はお寺では全然役に立たない。お坊さんはお米と野菜しかくれないから。それに人間がとても恐れている。俺はもうどうにもならないが、生まれてくるわが子の牙はもっと可愛らしい、丸いのにしていただけないでしょうか。」                         「お釈迦様、俺の声は超重低音の迫力があるが、どうも人間はこわがっている。俺は我慢して声を出さないようにしているが、生まれてくるわが子には一オクターブ高い声を与えてもらえないでしょうか。」                        慈悲深いお釈迦様は、そのトラの願いを不殺生・人との共存の願いと受け止めて、一つひとつを聞き止めて、きっと叶えてくださることだろう。でも、気が付いたら、トラはネコとそっくりになっていたなんてことになるのかもしれない。(笑い)

全く同じように、稲もどこかに時点で人に寄り添う道を選択して、人に尽くしてきた。結果的にそれが功を奏して今日の地球規模の繁栄を謳歌している。稲と双子の兄弟である稗は今のところ風向きが悪いが、これから異常気象が激化する中でその本領が発揮されて、見直される時が来る可能性も十分ある。もともと救荒作物と言われるゆえんだ。

そういうことも考慮して、私たちはもっと稗との付き合い方を変えていった方がいいのではないか。稗に向ける排他的な厳しい視線を、その存在を容認する寛容な視線に変えていけば、稗の憎まれっ子世にはばかる的な生き方も少しずつ変わっていくに違いない。もっともそれには、100年、200年かかるかもしれないが。

生命現象は生命同士の相互作用で展開している。現象世界と「いのちの世界」の相互作用もある。そうして、生命の万華鏡が展開している。そこには尊徳の言うように「本来、善も悪もない。」稲と稗を相手にしながら、そういう生命の曼荼羅の世界に思いをはせて、日々の農作業に関わっていきたいと思う。

稗に心を寄せて(9)

「いのち」は別に脳がなくても自ら思考していると申し上げた。だから、バクテリアでも思考している。すべての生命はちゃんと思考している。ただ、植物は静的な存在で移動できない。だから、動的で脳のある動物よりも「いのちの世界」と強く結びついていて、そこから受ける影響も守られる度合いも動物より強いのではないかと思う。

さて、「自力・他力融合進化」のもう一つの理由をあげよう。トマトの色の例に戻れば、では、トマトはどうやって、緑色の実を赤くすることができるようになったのだろう。その能力はどうやって獲得したのだろうか。突然変異で、偶然に青や、紫や、灰色や、黄色や、いろんな色の実ができたのだが、たまたま赤い実が鳥に好まれて、自然淘汰で赤い実のトマトが生き残ったのだろうか。 私はそうではないと思う。宇宙には叡智が満ち満ちていて、宇宙の一側面である「いのちの世界」も同様だ。その世界が「トマト君、実は赤くした方がいいよ。」と教えてくれているのだろうし、また実を赤くするための方法も教えているに違いない。トマトがそう望んだとしたらの話だが。

数年前に面白い話を聞いた。ガラパゴス諸島のオオトカゲには、二種類あって、海の苔を食べる海のオオトカゲと、サボテンの花が落ちてくるの待ってそれを食べる陸のオオトカゲがいるというのだ。そうやって棲み分けがなされている。ところが、地球温暖化の影響で海の苔が十分に育たなくなっってしまったそうだ。それは、コケを食べるオオトカゲには死活問題だ。すると、どうだろう。コケも食べるし、なんとサボテンに上って、咲いている花も食べる、ハイブリッド種が誕生したというのだ。それなら、コケが減っても海のオオトカゲが生き延びる可能性は高まるのは間違いない。本来なら、何百年、何千年かかって起こるような変化が実にタイムリーに起こっている。私はこれは「いのちの世界」が生き物に働きかける良い例ではないかと思っている。そうやって、環境の変化に適応した種を地上に誕生させているのだ。ただ、そうなると、今度は花が落ちてくるまでのんびりとサボテンの下で待っている陸のオオトカゲは食べ物が奪われてしまうから、危機に陥ってしまう。こちらはどうなるのだろうか?その後の変化が興味津々である。

地球温暖化による生物界の激動が始まっている。生物同士が生息域を巡って、食料を巡って大移動をし、時に激突する事態が誕生しつつある。それは、生物種の絶滅と進化が加速される事態を招いていくだろう。その激変する環境下では、突然変異や自力進化だけでは追いつけない事態が次々に起こっていくに違いない。しかし、「いのちの世界」はその危機を乗り越える能力をあまたの生物に与えていくに違いない。

続く

 

 

稗に心を寄せて(8)

生物は「自力進化」するのか、それとも「自力・他力融合進化」なのか。

私が後者だと思う素朴な理由は、植物の場合がわかりやすいのだが、植物には脳がないのに、間違いなく植物も考えているからだ。例えば、「鳥に食べてもらうには、緑色の実よりも、赤い色の方がいいだろう」と考えて、トマトは実を赤にしたとしよう。では、トマトはいったいどこでそのように考えたのだろうか。根っこに大脳があるのか。葉っぱにはどうもなさそうだ。茎には思考する組織があるだろうか。あまりそんな感じはない。では、根元で、土の表面からわずか1、2cmぐらい中に入ったところ、そこから根も生えだししている、生命の中心をなす部位はどうだろうか。そのような組織はなさそうだが、思考する機能はあるのかもしれない。素人にはよくわからないが、そういう話は全然聞いたこともないから、単純に言って、トマトには脳に相当する部位はないのだろう。小松菜にも、サトイモにも、ナスにも、そのような思考する組織はないと現代科学は考えているのだろう。

それでは、いったい、トマトも小松菜もナスもサトイモもどこで思考しているのだろうか。このようなとても素朴な質問に現代科学は明快で、かつ客観的で、実証可能な科学的な答えを出していないだろう。これは何とも不思議なことだ。この科学万能の時代にだ。

植物は感覚器官を持っている。暑さ、寒さはちゃんと感じている。しかし、感覚器官だけでは思考は成立しないのは明らかだ。それを統合している組織はどこにあるのか。そもそも統合しているのかどうか。どうやら統合していないらしいという科学実験の報告を聞いたことがあるが、その辺もまだ未知の分野のようだ。

しかし、その一方で、私の「いのち」が教えてくれることがある。それは、生きとし生けるものは、「いのち」という感覚器官を持っているということだ。「いのち」は一種の感覚器官でもあるのだ。それを実存生命感覚と呼ぶことにしよう。あるいは、生命は全身の一つ一つの細胞にみなぎっていて、それが統合されているところから生じる感覚なので、生命統合感覚と呼んでもいいだろう。それは小川個人のとんでもない思い込みだとか、幻想だと言われても反論のしようもない。だから、生物学者にとっては、せいぜい精一杯好意的に考えても、「それは宗教的な検討課題だ。」というのが関の山だろう。それで一向に構わないが、その小川の思い込みの話を続けるならば、先にあげたトマトやなすなども、「いのち」という生命統合感覚があるので、外界の情報がすべてキャッチできていている。そして、同時に「いのち」はそのような統合された情報を元に思考している。つまり、「いのち」そのものが思考しているのだ。その個々の「いのち」は見えないし、物質的なものではないのだが、同時に目に見えない「いのちの世界」に繋がっているから、当然ながら、そこの情報も得ていて、そこからさまざまなアドバイスや知識も入手している。トマトはそれらを総合して考えている。そして、決断して必要な行動を取っている。それが、私の考える植物の思考の仕方だ。なお、このような考え方と似たような考え方をしている人は他にもいるから、別に私独自の考えではないと思う。

続く

稗に心を寄せて(7)

このブログの原稿を書いていて、前回初めて「相互進化」という言葉を思いついたら、何のことはない。そういう言葉はすでに存在していて、「共進化」という言葉も目に飛び込んできた。ネットで調べたら、ウィキペディアにもちゃんと載っているではないか。私はいかに無知で、無学であるかを思い知らされた。ちなみに、そこには以下の定義がある。

共進化(Co-evolution)とは、一つの生物学的要因の変化が引き金となって別のそれに関連する生物学的要因が変化することと定義されている[1]。古典的な例は2種の生物が互いに依存して進化する相利共生だが、種間だけでなく種内、個体内でも共進化は起きる。

そして、種間の共進化の例として、次の事例が挙げられていた。

共進化の代表的な例として、ハチドリによるラン受粉がある。鳥は花のに依存し、花は鳥による花粉拡散で生殖が可能になっている。より効率的な花粉媒介を期待するなら、同じ種の花には同じ種のハチドリだけが来るようになっていた方がよい。そのため、花はハチドリの形に合わせ、ハチドリも花からうまく蜜を取るように花に合わせた形に進化する。それによって鳥の嘴は長くなり、花の形は深くなった。

そして、その直後、その方面に詳しい上田恵介教授の話が見つかった。実は、上田先生は2年前に自然耕塾に参加された先生だ。不思議なご縁だ。もしかしたら、当時上田先生は私のこのような話をにやにやしながら聞いていたのかもしれない。上田先生のお話はとても分かりやすいので、以下に引用させていただくことにする。

──植物とそれ以外の生物にもやはり「共進化」が起こるわけですか。

上田 もちろんです。例えば、果実にはいろんな色や大きさ、味がありますよね。モモやリンゴなどの甘くて大きな果実は、人間が長い栽培の歴史の中で改良を重ねていったものですが、ヒトがいなかった時代、それらの原種は小さくて甘味も少なかったでしょう。じゃあ、それらが何のために存在していたのかというと、鳥やサルたちをおびき寄せるためです。

──種を運んでもらうために?

上田 植物の中には、さやがはじけて種子を遠くへ飛ばしたり、風に頼って分散を図るのもいます。これらの方法だと、あまり重い種子をつくるわけにはいきません。しかし、軽い種子では発芽率、定着率も悪くなります。種子のために十分な養分を蓄えてやること、遠くへ分散させること、動けない植物がこの相反する矛盾を解決するために生み出した方法が、鳥やサルを引き寄せるための果肉をつけることだったのです。そして、甘くしたり、ちょっとでも目立つ色にすればあちこちに運んでもらえます。

野山を歩くと緑や茶色の実よりも赤い木の実が多く目につきますよね。あれらも鳥に種子を運んでもらうために、果肉をつけ、目立つような色になっていったんです。また赤い色にはもう一つ効果があります。赤は鳥には見えやすく、種子を食害する昆虫には見えにくい色なので発見されにくい。もし、発見されたとしても鳥が食べにやってきてくれるわけです。

そして、以下のナメクジの話は傑作だ!爆笑しないわけにはいかない。

 

 


ヨーロッパにはイヌの糞に擬態したナメクジがいるそうですが…。

上田 初めて見た時は、ほんとにギョッとさせられました。最初は冗談で考えついたんですが、よくよく考え直してみると、やはりあれは人間に踏まれないようにしたナメクジの知恵なんだと思います。

──どんなものなんですか。

上田 割と大きいです。大きさは親指くらいありますから、10−p近いと思います。ちょうど中型犬の糞と同じくらいですね。色も少し赤っぽい茶色と、黒に近い焦げ茶色と2種類あります。

この2種類あるのも意味があるんじゃないかと思います。一つなら恐らく見破られてしまうけれども、2種類が混ざって存在することによって撹乱できる。こっちはナメクジかも知れないけど、こっちは本物かも知れないとか、つい迷わされてしまう、というのはかなり効果的な意味を持っているわけです。

──人間も選択者なんですね。

上田 ですから、人間も進化を促す役割を持っているんです。

そうなのだ。人間も進化を促す役割をになっているのだ。人間と生き物との間で数々の共進化が生じているのは間違いない。ただ、私と上田先生の認識の違いは、私が「いのちの世界」も進化にかかわっている、つまり、「他力・自力融合進化」のことを言っているのに対して、上田先生は学者だから、基本的には種それぞれ独自の「自力進化」という立場なのだろうと推察する。今度一度ぜひ大家族にお越しいただいて、詳しくお話ししていただきたいと思うようになった。

続く