ここまで読んできて、読者の中には私が今の稗と昔の稗は性質が違ったと考えているのではないかと、感じられた方もいらっしゃるかもしれない。その方は大変深い読みをされている、敏感な方だ。実は、そうなのだ。
これは生物はどのようにして進化するかという問いにつながる。
私は19年間農業に手を染めているが、作物を見つめていると、おのずからそれらはどのようにして進化してきたのか、またその土地にどのようにして適応してきたのか、考えるようになる。もちろんどのように品種改良されてきたかということも考える。作物の場合は品種改良が一番大きく影響しているのは言を俟たない。
田畑の自然を観察していて得た結論の一つは、目の前にある「現実世界」と、すべての命の源である、目に見えない「いのちの世界」があるということだ。これは、たぶんに便宜的な言い方だが、わかりやすいので目に見える「現実世界」あるいは「物質世界」と、目に見えない「いのちの世界」と分けている。そのような認識については古来多くの宗教者や賢者が同じようなことを言っている。私もそれに同意するということだ。そして、現実世界と「いのちの世界」は溶け合って一体化していて、相互に影響し合っている。同時に、一つ一つの個別の生命も他の命と結びついていて、なおかつ「いのちの世界」とも結びついている。これも古来から言われてきていることだ。私もその通りだと思う。
それでは、稲と稗の関係について、そこに進化の概念を当てはめてみよう。ちょっと前までは稲と稗は遺伝子が同じだと言われてきたくらいだから、昔からその姿はとても似ていたのだろう。しかし、人に好かれる稲と、嫌われる稗とは、まったく別の運命(=進化)をたどらざるを得なかった。稲は人の願いや希望を知り、それに自らを近づけることで人に愛され、もっと多く栽培してもらえるように心掛けてきた。私たちは2000年前の稲の姿を見ることもその性質を知ることもできないが、もしそれができたなら、きっと今の稲とはいろいろな点で違っていたことだろう。もちろん、一番大事な種=米はもっと小さかったことは容易に想像がつく。人の最大の関心事はそこにあっただろうから、例えば、突然変異して、大粒の実をつけた稲株を人は大事に保管して、別に育てることもしただろう。稲は、実だけでなく、その体、すなわち藁も、実を入れる袋、すなわち籾さえも人の役に立ってきた。稲は捨てる部分が何もない植物だ。その点で稲に勝る生き物はないだろう。例えば、藁には発芽を抑制する成分が含まれているが、それは畑で野菜の間に敷けば、草を抑えるのに役立つ。そのような発芽抑制の働きは麦には乏しい。たまたまそういう成分を有していただけだということももちろんできる。しかし、私にはそういう特徴は稲が人に協力するために自らをを変えてきた成果であるように思えてならない。そして、そのような能力は「いのちの世界」の力を借りて初めて実現できることであろうと思っている。なぜなら、「いのちの世界」には生物の進化に関する38億年の情報と進化を可能とするありとあらゆる処方箋(=マニュアル)が用意されているからだ。
(ピーマンのカブもとに藁を敷いて草を抑えている)
全く、同じように、稗も「いのちの世界」の力を借りて自らの能力を高める努力をしてきたに違いない。稲との違いは、人から嫌われる稗は、おそらく稲よりもずっと真剣に切磋琢磨しただろうし、また多くの知恵と力を「いのちの世界」からもらってきただろうということだ。「いのちの世界」は、地上のすべての生命を繁栄繁茂させる世界だから、とりわけ、その命、つまり、その種が生存の危機に立たされているときに強く働きかける。その生き物にその窮地をうまく潜り抜ける知恵や力を与える。それが突然変異を引き起こす。稗でいえば、例えば、田植えの前には生えてこないで、田植えの後からそおっと生えてくる知恵は、そのいい例だ。田んぼの稗も食していたであろう2000年前には、まだそのような発芽の仕方ではなかったのではないだろうか。また、前にも言ったように、稗は第1弾の発芽から始まって、第2弾、第3弾と、時期をずらして、何回でも発芽してくるのも、人の草取りの仕方を情報として蓄えている「いのちの世界」が稗に教えて、その回避策を与えたのではないかと思う。
こうして、私はダーウィンの進化論とは全く違った進化論を論じている。ダーウィンは、突然変異と適者生存の原理で、生物は進化してきたと言っている。現代の遺伝子工学や生命科学の進歩でもはやその理論はあまり現実的ではないことが証明されつつあるようだが、私が言っているのは、進化は、生命同士の相互作用と、生命と「いのちの世界」の相互作用によって起こるという仮説で、むしろ宗教的な見方に根差した考え方だ。生命同士の相互作用だから、長い時間の尺度の中では、双方が共に進化する、すなわち、「相互進化」ないし、「共進化」が生命間で生じているのではないだろうか。
続く