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稗に心を寄せて(6)

ここまで読んできて、読者の中には私が今の稗と昔の稗は性質が違ったと考えているのではないかと、感じられた方もいらっしゃるかもしれない。その方は大変深い読みをされている、敏感な方だ。実は、そうなのだ。

これは生物はどのようにして進化するかという問いにつながる。

私は19年間農業に手を染めているが、作物を見つめていると、おのずからそれらはどのようにして進化してきたのか、またその土地にどのようにして適応してきたのか、考えるようになる。もちろんどのように品種改良されてきたかということも考える。作物の場合は品種改良が一番大きく影響しているのは言を俟たない。

田畑の自然を観察していて得た結論の一つは、目の前にある「現実世界」と、すべての命の源である、目に見えない「いのちの世界」があるということだ。これは、たぶんに便宜的な言い方だが、わかりやすいので目に見える「現実世界」あるいは「物質世界」と、目に見えない「いのちの世界」と分けている。そのような認識については古来多くの宗教者や賢者が同じようなことを言っている。私もそれに同意するということだ。そして、現実世界と「いのちの世界」は溶け合って一体化していて、相互に影響し合っている。同時に、一つ一つの個別の生命も他の命と結びついていて、なおかつ「いのちの世界」とも結びついている。これも古来から言われてきていることだ。私もその通りだと思う。

それでは、稲と稗の関係について、そこに進化の概念を当てはめてみよう。ちょっと前までは稲と稗は遺伝子が同じだと言われてきたくらいだから、昔からその姿はとても似ていたのだろう。しかし、人に好かれる稲と、嫌われる稗とは、まったく別の運命(=進化)をたどらざるを得なかった。稲は人の願いや希望を知り、それに自らを近づけることで人に愛され、もっと多く栽培してもらえるように心掛けてきた。私たちは2000年前の稲の姿を見ることもその性質を知ることもできないが、もしそれができたなら、きっと今の稲とはいろいろな点で違っていたことだろう。もちろん、一番大事な種=米はもっと小さかったことは容易に想像がつく。人の最大の関心事はそこにあっただろうから、例えば、突然変異して、大粒の実をつけた稲株を人は大事に保管して、別に育てることもしただろう。稲は、実だけでなく、その体、すなわち藁も、実を入れる袋、すなわち籾さえも人の役に立ってきた。稲は捨てる部分が何もない植物だ。その点で稲に勝る生き物はないだろう。例えば、藁には発芽を抑制する成分が含まれているが、それは畑で野菜の間に敷けば、草を抑えるのに役立つ。そのような発芽抑制の働きは麦には乏しい。たまたまそういう成分を有していただけだということももちろんできる。しかし、私にはそういう特徴は稲が人に協力するために自らをを変えてきた成果であるように思えてならない。そして、そのような能力は「いのちの世界」の力を借りて初めて実現できることであろうと思っている。なぜなら、「いのちの世界」には生物の進化に関する38億年の情報と進化を可能とするありとあらゆる処方箋(=マニュアル)が用意されているからだ。

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(ピーマンのカブもとに藁を敷いて草を抑えている)

全く、同じように、稗も「いのちの世界」の力を借りて自らの能力を高める努力をしてきたに違いない。稲との違いは、人から嫌われる稗は、おそらく稲よりもずっと真剣に切磋琢磨しただろうし、また多くの知恵と力を「いのちの世界」からもらってきただろうということだ。「いのちの世界」は、地上のすべての生命を繁栄繁茂させる世界だから、とりわけ、その命、つまり、その種が生存の危機に立たされているときに強く働きかける。その生き物にその窮地をうまく潜り抜ける知恵や力を与える。それが突然変異を引き起こす。稗でいえば、例えば、田植えの前には生えてこないで、田植えの後からそおっと生えてくる知恵は、そのいい例だ。田んぼの稗も食していたであろう2000年前には、まだそのような発芽の仕方ではなかったのではないだろうか。また、前にも言ったように、稗は第1弾の発芽から始まって、第2弾、第3弾と、時期をずらして、何回でも発芽してくるのも、人の草取りの仕方を情報として蓄えている「いのちの世界」が稗に教えて、その回避策を与えたのではないかと思う。

こうして、私はダーウィンの進化論とは全く違った進化論を論じている。ダーウィンは、突然変異と適者生存の原理で、生物は進化してきたと言っている。現代の遺伝子工学や生命科学の進歩でもはやその理論はあまり現実的ではないことが証明されつつあるようだが、私が言っているのは、進化は、生命同士の相互作用と、生命と「いのちの世界」の相互作用によって起こるという仮説で、むしろ宗教的な見方に根差した考え方だ。生命同士の相互作用だから、長い時間の尺度の中では、双方が共に進化する、すなわち、「相互進化」ないし、「共進化」が生命間で生じているのではないだろうか。

続く

 

地力の差

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自然耕塾11回目は、いよいよ収穫の技=脱穀が主たる実習となりました。4畝の不耕起冬期湛水の田んぼの稲束は高性能の脱穀機で素人でもみるみるうちに脱穀されて、50分ほどで脱穀作業は完了しました。並行して、藁は手分けして田んぼに戻しました。

ちょっと休憩してから、「今日は、脱穀作業に習熟していただきます」と話して、川を挟んだ反対側にある、普通に耕した有機栽培の3.6畝田んぼの脱穀も手がけました。そこでは、藁を束ねる作業や押し切りで藁を切る作業も体験してもらいました。自然耕塾@相模原では、そのようにして、自給自足を目指す人にも、専業農家を目指す人にも少しでも多くの異なった技術を身に着けてもらえるように努めています。

 

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そうして、最後に不耕起冬期湛水の田んぼで取れたお米の袋数と、有機栽培の田んぼの米袋の数を並べてみたところ、全員がびっくり。なぜかというと、みんなで一年間丹精込めて育てた冬期湛水の田んぼの収量よりも、ほんの少ししかか面倒をみなかった有機栽培の田んぼの収量の方が格段と多かったからです。

その最大の違いはなにかというと、地力です。どちらにも全く同じように肥料を与えているにもかかわらず、川を隔てた左側と右側という、それだけの違いで、そのような大きな違いが実際生じるのです。

これで、今回の最大の学びが明らかになりました。地力の差はとても大きい!借りるなら、地力のある田んぼを手に入れよう!         塾生としたら、できれば、収量の多い方が一年間面倒を見た冬期湛水の田んぼであってほしかっただろうと思います。私も心情的にはそうです。しかし、自然は厳しく、ときに冷酷です。全然見たくない現象を見せつけられることがあります。大切なのは、心情に反する事実であっても、その事実を冷静な心でしっかりと受け止めて、冷徹な目で自然から客観的に学ぶことです。そして、その事実が好ましくない、不都合なことであるならば、それを改善するためにさらに知識を求め、知恵を働かせることです。そうやって、一歩一歩与えられた自分の田んぼを良くしていく努力を重ねていく。それが米作りの営々たる営み、すなわち、人と自然とが織りなす一体化の営みとなっていきます。

以上

 

野菜通信を再開します

新しブログができたので、これから野菜通信も再開します。

この通信は野菜の定期購入者に折々の畑の状況から学んだり気づいたりしたことを思うままに「お知らせ」しているのですが、その中からこれぞと思うものを大家族のブログを見てくださる方にも読んだいただきたいと思って、掲載するものです。乞う、ご期待!

それでは、早速ですが、今週の「お知らせ」から転用します。

みなさん、
夏野菜と秋野菜の交代の時期になりました。
毎年この時期に思うのですが、有機栽培をやっていると、
虫たちがそのタイミングを正確に教えてくれるのです。
今回お届けした葉物野菜にはまだ虫食いがかなりありました。
その意味するところは、まだ葉物野菜は虫には完全に勝てないということです。
つまり、まだ葉物本来の生命力が発揮できていないことを表しているのです。
しかし、今生長中の葉物野菜にはほとんど虫がついていません。
つまり、彼らは虫を寄せ付けない力を持っていると言うことです。わずか2,3週間の種蒔き時期の
違いでそのような差が出てきます。
私たちにとって、「日が短くなってきた、少し涼しくなってきた」と感じるだけの些細なことが、
自然界では、命と命のせめぎ合いに直結しています。
その有様がつぶさに観察できるのが、有機農法であり、自然農法の畑です。
化学農法は、そんなことはどうでもよくて、たった一つの基準で自然をぶったぎってしまいます。
 虫は排除せよ!
そういう強引な農業では農家に自然としなやかに感応する感性が鈍ってしまうのではないでしょうか。
そういう野菜を食べる人にもその影響は、たとえ僅かでも、届かざるを得ないでしょう。
同業者としてとても残念に思う所です。
ところで、今年の北海道の玉ねぎは、やはりここ数年続く異常気象でさんざん痛めつけられて、とうとうその農家は
止むにやまれず農薬を1回かけたそうです。私は70歳を超えたそのおばあさんの苦渋の決断の様子が
目に浮かびます。そいういう農薬であれば、その有機農家を救う有益な薬だったに違いありません。
ならば、今まで通りに購入して、その農家を支えたいと思います。
ご協力いただければ、幸いです。
農薬が100%悪いのではありません。あくまで正しい使い方をすることが大切なのだと思います。とはいえ、私は農薬を使うという選択肢は全く持っていません。生き物との共生のほうがもっと大事ですからね。
以上

稗に心を寄せて(5)

それでは、「しばらくも離れることができない」稲のほうはどうなるのか。双子の兄弟が弟を失った時に、兄はどうなるのか。あるいは、弟が兄を失った時に、弟はどうなるのか。そのことも考えなければならない。

とは言うものの、化学農法で大規模に米を作っている農家からすれば、こんな話は愚の骨頂に聞こえることだろう。彼らの田んぼに稗がなくなってから、もう20年も30年も経っているところも無数に存在するだろう。「それでも、俺は普通に米を作っている。」と。私の田んぼでも稗の出ない田んぼがいくつかある。そこでも生命力のある、おいしいお米が取れている。だから、稗がなくなっても、稲は何も悪い影響は受けていないとも言える。だとしたら、私が言っていること自体に矛盾があるのではないか。

ここで注目すべきは、私たちが稲に寄せる思いと、稗に寄せる思いの差だ。私たちは稲を好ましく思い、稲を育てようと思う。稲は人間から愛されている。だから、稲は兄弟である稗を失っても元気に生きていくことができる。それに対して、農家は稗を邪魔者か悪者だと思っていて、稗を田んぼや田んぼ周りから徹底的に排除しようとしている。だから、稗は辛い。が、それでも、(稲に励まされて、)自力で必死に生き残ろうと様々な技を開発して、今日まで生き延びてきた。稲と稗にはそこに根本的な立場の違いがあるのだ。

「憎まれっ子、世にはばかる」という言葉がある。稗はその典型だが、それはあまりに憎まれる側の気持ちを無視した言葉だ。憎まれる側は必至なのだ。その気持ちを少しでも汲んであげたら、稗はきっとほろりと涙を流すことだろう。

続く

稗に心を寄せて(4)

稗が知恵者であることをもう少し視野を広げて考えてみよう。

話がちょっと飛ぶように思われるかもしれないが、二宮尊徳の話をまとめた『二宮翁夜話』に次のような話がある。

「善悪の話ははなはだむつかしい。根本を論ずれば、善もなく悪もない。善と言って分けるから、悪というものができるのだ。善悪は人間の考えからできたもので、人道上のものだ。それゆえ、人がなければ善悪はなく、人があってのちに善悪があるのだ。」と尊徳はちょっと哲学的な話を始める。そして、話の途中でこんな法話を引き合いに出す。

『涅槃経』にこの喩がある。ある人の家に容貌の美しく端正な婦人が入ってきた。主人が『どういうお方ですか』と問うと、婦人が答えて、「私は功徳天である。私が行くところ吉祥・福徳が無限である。」と言う。主人は喜んで招き入れた。婦人が「私に随従する女が一人いる。必ずあとから来るから、これも招き入れてください」と言う。主人は承知した。そのときに一女が来た。容貌醜悪で、いたってみにくい。「どういうお方ですか」と問うと、この女が答えて、「私は黒闇天である。私の至るところ不詳・災害が無限である」と言う。主人がこれを聞いて大いに怒って、「急いで立ち帰れ」と言うと、この女が言うには、「前に来た功徳天はわが姉である。しばらくも離れることはできない。姉を泊めるなら自分も泊めなさい。われを出すなら姉も出しなさい」と。主人はしばらく考えて、二人とも出してやったところ、二人はつれ立って出て行ったということを聞いた。これ生者必滅・会者定離の譬えである。死生はもとより、禍福・吉凶・損益・得失みな同じだ。もともと禍と福とは同体で一つのものだ。吉と凶とは兄弟で一つのものだ。すべてのことはみな同じだ。いまもそのとおりで、通勤するときは近くてよいと言い、火事だと言えば遠くてよかったという。これでわかろう。」

私はこの功徳天と黒闇天の話は分かりやすくて、好きだ。        私たちにとって、稲は善であり、稗は悪である。つまり、稲は功徳天であり、稗は黒闇天のような存在なのだ。しかし、尊徳は本来「善もなく、悪もない」と言う。「善と言ってわけるから、悪というものができるのだ。」 その通りだと思う。私が感じるのは、本来稲と稗は双子の兄弟で、「しばらくも離れることはできない」のだ。それを無理やり稗だけ田んぼから引き離そうとするから、黒闇天である稗は離れまいとしてその知恵を強く働かせるようになる。ましてや、黒闇天を滅ぼそうなどと考えたら、大変な仕返しをくらうことになるだろう。稗個別撃破の除草剤がもたらす災禍はどんなものになるのだろうか。考えただけで恐ろしくなる。

続く

稗に心を寄せて(3)

稗が農家から嫌われるもう一つの大きな理由が除草剤が効かないことだった。農家を重労働から救った除草剤は今の化学農法ではなくてはならない物だ。その除草剤が効かないとなれば、農家いじめの悪玉的な存在になるから、嫌われても仕方がない。なぜ除草剤が効かないかというと、稗と稲は遺伝子が同じだから、遺伝子を傷つける除草剤が使えないからだと聞いていた。

ところが、ここ4,5年前ぐらいからだろうか、稗専用の除草剤が開発されたということを聞くようになった。私の想像だが、遺伝子解析技術の飛躍的な向上で同じと思われていた稗と稲の遺伝子の違いが明確にされて、そこを狙う除草剤が開発されたのだろう。稗や哀れ。とうとう稗の知恵を凌ぐ人間の科学の勝利だ!これで稗の命運も尽きるのか。

いえいえ。そう簡単に問屋は卸さないだろう。ここからが私の言いたいことだ。ご存じのとおり、かつて稗は食糧として栽培されてきた。今でも、雑穀として栽培しているところはある。だから、全面的に嫌われ者というわけではない。しかし、やはり田んぼでは昔から悪玉で、嫌らわれ者だったに違いない。そういう自分であることを知っている稗は様々な知恵を働かせて、生き残りの技を獲得してきた。嫌われれば嫌われるほど、稗は知恵を働らかせてきた。そのただならぬ能力と根性は見上げたものだ。そうなのだ。稗は大変な知恵者であり、努力家でもあるのだ。だから、私は稗は除草剤を上手にかわす術を必ず開発するに違いないと確信している。

ご存じのように、今やたんぼでは除草剤では枯れない、スーパー雑草が誕生して、徐々にその生息範囲を拡大しつつあある。ならば、知恵者である稗が同じ技かそれ以上の技を身に着けるのは時間の問題だろう。私はそう思っている。

続く

今年の米作りチーム

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新米の出荷が始まりました。一年の苦労が実って、お客さんに喜びをお届できる時期を迎えました。農家であることの幸せを感じます。

これが今年の米作りチームです。農家を目指す20代の若い女性スタッフ二人が本当によく頑張ってくれました。男と全く同じ仕事を一言の文句も言わずにこなしました。今年の総作付面積は約16反。すべて有機農法です。

写真の田んぼでは私ともう一人の男性仲間が手にしている稲穂のように、実に豪快な稲が育ちました。重くて、はざかけもうれしい悲鳴を上げました。今年はそんな田んぼが何か所かで見られました。

今年は2月の関東豪雪から始まって、日本各地で異常気象が猛威を振るいました。そん中で平年通りに収穫が許されるのは偶然ではありません。神様のご加護があるからこそいただける恵みです。

「和み農」では、「春に祈り、秋に感謝する」ことを基本とする伊勢神宮のしきたりに倣っています。実りの秋に神への感謝を忘れないようにしたいと思います。

さて、そうして収穫を許された大家族のお米は、神様に奉納させていただいて恥ずかしくないように、本当の安全=清らかであること、つまり、自然本来の清浄なお米であることと、生命力が漲っていること、そして自然本来のおいしさと、三つを追及しています。もちろん、そのために農薬や化学肥料は一切使わないで、生き物いっぱいの田んぼになるようにいろいろな工夫をしています。田んぼは水辺の自然環境だからです。

どうぞ、今年の大家族のお米、「いのちいきいき米」をお試しください。

小川

稗に心を寄せて(2)

5年前に別の部落で田んぼを1枚借りたことがある。2年間耕作者がいなくて休耕していた田んぼだそうだ。行ってみると、ところどころに稗が穂を出してもう種をこぼしていた。広さは9畝で、いい田んぼなので、そんなことは気にしないで二つ返事で借りた。早速草を刈って、冬場に耕して、春にはきちんと代掻きをして、5月末に田植えをした。            それから2週間もしないうちに、早々に雑草が出てきて、田んぼ全体がうっすらと緑色になってきた。それから1週間もすると、田んぼはすっかりゴルフ場のように緑一色になった。それは実に美しかった!しかし、それが稗だった。姿かたちは稲とうり二つ、しかし、その数、稲の千倍はあっただろうか。

それから、稗取り大作戦が始まった。その初日に竹棒を持ってどことなく仙人のような雰囲気をもった高齢の農家がやおらやってきて、田んぼを見渡して一言枯れた声で感慨を洩らした。                    「これを全部取ったらたいしたもんだ。」                   その言葉は誰に宛てたでもなく、なんの嫌味もなく、なんの押し付けがましさもなかった。神の声とはあんな感じなのだろうか?私はその一言で腹が決まった。                                「よし、全部取ってやるぞ。」

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(どれが稲でどれが稗かさっぱりわからない)

しかし、余りの多さに稗取りは遅々として進まず、仲間の助けを借りても全部取りきるのに百六十時間は費やしただろうか。大格闘だった。それでやれやれと思ったら、また1か月後には大量に生えてきているではないか!私は大きく息を吸って、あの老人の一言を思い出して、再び稗取りに憑かれたかのように取り掛かった。その頃は稲もずいぶん大きくなっていて、顔を稲の間に突っ込んで取るような形で、作業は前より大変だった。幸い、また、仲間が助けてくれたおかげで、何とかまた稗を田んぼから一掃することができた。

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(仲間と必死で稗取り作業)

「もう、これでおしまいだろう」と思っていたら、稲が穂を出すころ、また田んぼのあちこちで稗も穂を出た。稲に寄り添っていた奴らだ。   「そんな馬鹿な!」                                でも、取るしかない。あの老人の声がまだ耳に残っていたからだ。稲と同じ背丈になって、稲より格段に根をしっかり張っていて、ごぶっとくて重い稗はもう引っこ抜くことはできず、鎌で根っこを切って全部田んぼの外へ持ち出すしか方法がなかった。汗まみれになって、これがまたえらく大変だった。

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(田んぼから取り出した稗を抱える)

そうして、3度稗取り大作戦を展開して、秋になり、稲刈りの日を迎え、はざかけを終了した時はジーンとくるものがあって、感動した。新参者が周りの農家に意気地を見せた思いだった。ただ、残念だったのは、あの日以降、あの老人を見かけることは一度もなかった。もう亡くなってしまったのだろうか。あの老人だけにはぜひ稲刈りの日の田んぼの姿を見てほしかった。

これが私の稗取り体験で一番記憶に残っている出来事だ。稗は侮っていはいけない。それが最大の教訓だ。

続く

台風19号

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稲刈りをして、はざかけを完了すると、達成感と満足感にしたることができます。しかし、それは台風に危険を晒す状態にすることでもあります。

10月に立て続けに到来した台風18号と19号。はざが倒されないように補強した甲斐もなく、期待外れなくらいおとなしい台風18号は無事にやり過ごすことができました。ところが、台風19号は猛スピードで通り抜けましたが、真夜中にビュウービュウー吹き荒れて、「いや、でも大丈夫と」自信満々点検に行ったら、なんと6枚の田んぼで見事にはざかけが倒されていました!そのうち4枚の田んぼでは稲束が水に浸かってしまい、全部を起こして立て直すのは大変でした。丸一日かかりました。ちなみに、その状態のままほおっておくと、4,5日で発芽して、お米は全部だめになってしまいます。

やっぱり台風は侮れませんね。恐れ入りました!

自然相手なので、収穫するまで何があるかわかりません。

小川

光と水の出会い

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(不耕起畑で大根の間引き作業)

昨日は快晴に恵まれて、さわやかな風の吹く中、10月度の畑の研修会の日でした。 不耕起畑では大根の間引き(上の写真)、耕起畑ではサツマイモの収穫、玉ねぎの苗床の草取り、キャベツやカブねぎの移植などを行いました。

さて、もうすっかり親しくなった参加者は、私が何を話してもそれをネタに参加者同士で話がどんどん弾むような関係になっていて、毎回とても和気あいあいとしています。

そういう間柄になったので、土、水、火(=光)、風 という 万物の4大元素に関する私の勝手な思い付きについても、とても話しやすい環境になっていて、ありがたく思っています。

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(サツマイモの収穫)

昨日は、水とはなにかについて、お話しさせていただきました。特に光と水の出会いが、生命誕生に決定的に必要であることに触れました。すなわち、光はまさに生命誕生の父であり、水は生命誕生の母であって、その両者の出会うところになんらかの”宇宙の意思”(=神の意志)が働くことで(それまでどこにもなかった微生物などの原始的な)生命は誕生するという私独自の考えを述べさせていただきました。地球の緑の進化発展の起点となったシアノバクテリアが38億年前に海中で誕生したのは、まさにそうして起きたのではないかと思います。

生命誕生の秘密は、おそらく永遠の謎でしょう。しかし、農業を営む者にとって、その秘密に迫ることはある意味で必然であり、またとても大切なことだと思っています。4大元素の働きを見つめることで、作物の育てる力は大自然にあり、自分の働きがいかに微々たるものであるかを悟ります。持続可能な農業はそこから始まると思っています。

大家族 小川 誠